Ⅲ 『アナキズム入門』勉強会②〜自然、歩く、ずらして戦え!〜(ルクリュ、マフノ)

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 『アナキズム入門』勉強会② ―ルクリュ、マフノー

カメラ目線

 

  • ルクリュ

——じゃ次行きます。ルクリュ。

 

 ルクリュは僕が1、2番目に好きなアナキストですね。

 

——読んでてもそれはすごく伝わってきました。

 

 僕、ルクリュのすごい好きな言葉があって、「選挙に投票するということは僕らの権利を放棄することだ」ということを言っています。もっと前だとルソーがイギリスをディスるときに「イギリス人って選挙してみんな自由だとか思っているけれど、選挙って投票する瞬間だけ自由で、そのあとは結局奴隷でしょ?」と言っている。それを受けてかどうかはわからないけれどルクリュは、選挙ですべてを決めるというのは無駄だよね、と。

そうじゃなくて「われわれが生きる上での前提とするのは何か?」といったら、彼は話をどーんと広げて「自然だ!!!」っていうわけです。

 

これもレヴィ=ストロースの「文化と自然」とかでよくいわれる話なんですが、ある対立項をつくるとすごい相対的な話になってしまうんです。そうじゃなくて、「それそのものになってしまうことによって相対的なものをずらすことができる」とルクリュは言っていて、例えば、自然そのものに自分がなることによって、そこから派生する文化や科学というものがあるのだけれども、やはり具体なくして抽象なしで、自然がなければ、何も生まれない。これはよく言われるし普通の話ではあるんだけれど、それを体で実感するって難しいと思う。僕も頭ではわかってたんですけれど、本当にこれがわかるようになったのはずっと最近のような気がしていて。腑に落ちたというか、丹田でわかった、というか。

たとえばこのパクチー、今年採れたからお土産にもってきたんですけど。

 

——このパクチーおいしいです。

 

 たぶんときどきイタリアンパセリ混ざってますよ(笑)。で、パクチーは採れたから持ってこれたんですけど、今年、菜の花が採れなかったんですよ。なぜ採れなかったかといえば、寒かったから。こういうのって僕も都市/田舎の区分で考えがちだったんですけれど、最近農業するようになってから「都市と地球の問題だ!」と思うようになったんです。オカルトみたいなこと言ってますが(笑)。

 

でもこれって実感でしかないんですよね。今年寒かったでしょ? 寒かったから採れないんです。じゃあ地球全体はどうなってたかというと、北半球寒かったから南半球クソ暑かったんです。だからオーストラリアとかって暑すぎて死んでる人とかいるんです。

 

で、「これ、地球じゃん!」って思ったんすよね。昔、「地球ちゃん」ってゲームあったでしょ?

 

——???

 

 まあ、要するに「地球」なんですよ!!! なんか○マギシ会みたいになってますけど(笑)。とにかく、自然なるものを理念としてではなく具体的なコンクリートなものとして理解することで、そこに対するアフェクトとか、受け身だろうが能動だろうが相互の関係が出てくる。自然のなかに人間がどうやって入っていくかというときに労働ということが出てくる。林業とか、農作業とか、自然と人間の労働、ないしは人間社会というものがあって、それらを三つ巴として考えていく契機が必要なのではないかという部分で、自分がいま実践中という部分はあるんですけど。生活実感としてあるだけで言語化はできないけれど、そのモデルにジュラ連合とかがあるというのはそうだと思うし、でも、そういうのって天然でやってる人は日本というか東アジアは結構いるので。「ヨーロッパだ」とか「哲学だ」とか下手にいわなくても、実は身近にあるし、自然とやってきた人たちって結構いるんですよね。

 

——自然ということに関連していくと思うのですが、ルクリュの章では「歩く」ということも強調されてらっしゃいますよね。

 

 「歩く」ということについては最近、レベッカ・ソルニットの『ウォークス』って本が翻訳も出たみたいですが、

これすっごい面白くって、ソルニット流のウォークス歴史論なんですけれど、彼女は歩くというのが常に「抵抗」と結びついているかのように見せてくれています。ウォーキングという概念が生まれたのってある時期のイギリスで、その時にどういうふうにウォーキングしていたのかというと、まさにジェントリフィケーション(※ Gentrification:都市において、比較的低所得者層の居住地域が再開発や文化的活動などによって活性化し地価が高騰すること)のさきがけじゃないけれど、「囲い込み運動」というのがある中で自分たちがウォーキングというのをしていくんですね。囲い込みがあって私有地が特定されているなかで、そこを歩いていくわけです。「今までうちらが歩いてきた場所だから」って。そこで、土地の所有者は「これは俺の土地だぞ!」ていうわけだけど、「いや俺たちはそれ以前にここを歩いてきたんだ」って抵抗していくというのが脈々と500年の歴史のなかにある。で、ここがソルニットさんのうまい書き方なんだけど、そういうふうに、歩くことというのはどこかしら僕らの身体や「ただ生きていること」と結びつくということ。「ただ生きていること」と所有とかって実は全然関係ないわけですね。身体的な所作と抽象的な法令や条例だとかは何も関係ないだろう、って。

 

←囲い込みの石垣(リンク元

 

あと、僕が好きな登山に関していうと、帝国主義的な地理を見ていると面白いんですけれど、歩いているところってだいたい稜線なんですよ。福岡県と熊本県の間とかね。「あ、今おれ、どっちでもないとこにいる…!」みたいに境界・線上を歩いている自由な感覚というのはすごく面白くて、歩くことで帝国主義的な地理とは異なる仕方を見れる。そこにはずっと林道もあるし、林道以前に修験の道とかってどこ行ってもだいたいあるんですが、修験の道とかは境界線上とかいっさい無視していくわけです。どの場所にも岩があったりね。そういうふうにしていったほうが我々の身体の自由って獲得しやすい気はします。身体に忠実になることで、境界線や、国境もそうだと思うんですけど、いろんなことを無視すること。ある種、概念上の自由というものを獲得できるというのは、歩くだけではなく身体に関してはあると思う。

ってなんか哲学的な感じに言ったけど、ただ歩くのが好きってだけです。

 

 

 

  • マフノ

 

——最後にマフノですが、マフノは本書のなかで触れられているように「必殺仕事人」のイメージがすごい強くのこりました。かっこいいけどこわいというか。森さんはマフノのどこらへんに魅かれるのでしょうか?

 

 マフノが面白いのは戦術的なものというか。相手は戦術・戦略的に我々を攻めてくるわけですよ。でもそうじゃなくて、そこで突発的になにかをする。これはブラックブロックとかもそうだと思うんですけれども、目の前の機動隊というのは上意下達だから命令があるまで動けない。そこで「わーっ!」て動いて機動隊ぼこぼこに殴るとか逃げるとか、突発的になにかすればいいわけですね。そういうのを近代以降まさにやっていたのがマフノだったというのがありますね。近代というのを「枠組み」として捉えるのであれば、枠組みにたいして正攻法で「えいやっ!」と戦うのではなくて、そうじゃない仕方で戦う、と。そうするのがアナキズムだと捉えたときに、マフノはまさにアナキズム的に戦っていた人たちだと。

 

 

←ブラックブロックの方々

 

これは近代以前から戦術としてずっとやってきたことではあります。たとえば、一応党が主導していたけれども、一概にそうとも言い切れないのがベトナム戦争だったりするわけですが、そういうゲリラ戦で勝っていくというのは、古代から最近にいたるまでずっとあった戦い方で、そういう意味ではアナキズムというのは近代以降のものではあるんだけれども、概念は実はずっとあるものなんじゃないのというのはあります。

 

——「イズム」として確立される以前に、アナキズム的なるものは時代や場所を越えて常にあらゆるところにあったということですね。

 

 あとがきで書いていったところで、「近代的なものに対して近代的なもので戦う」と、そういうのも 必要なんだろうけれど、それとはちょっと違う仕方で生きて行くこと、それがアナキズムなんじゃないの、ということで、その語り方をわかりやすくしてくれていたのは鶴見俊輔さんだと思う。

 

 

彼は必ずしもアナキストだというべきではないかもしれないけれど、彼もそのエッセンスを引き継いでやっています。彼は「土壌をずらす」ということを言っていて、面白いのは例えばハンガーストライキの事例。国家が何か嫌なことをしたらデモをする、あるいは交渉するというふうに、近代にたいして近代的な枠組みで対決することも必ずしも無駄ではない。無駄ではないけれども、ハンガーストライキっていうのは、ただそこに自分の身体をさらして飯食わないでいる、と。「お前らなんかしてくんないと俺死んじゃうよ」、と。もう交渉でもなんでもないですね。ずらす。そういうことを事例として彼は出して、「ずらすことによってわれわれは勝ち得ることもあるんじゃないのか?」ということを書いている。

 

——近代という同じ枠組みのなかで対抗するのでも、よりいっそう近代的であろうとするのでもなく、あくまでも「ずらす」というのが面白いですね

 

 でも、だいたいの事例がそうなんじゃないかな。というのは、デモにしてもなんにしても、近代に対抗して近代でやって勝っちゃうこともあるじゃないですか。でもその前提として、常に「ずれたもの」というのがある。一番わかりやすいもので言えば、米騒動。

 

←米騒動

 

米騒動って何をもって勝ったというのかわからないけれど、たとえば原内閣を打倒したということが仮に勝利だとするとして、米騒動を起こした人たちは原内閣を打倒しようとしてやってたわけじゃないんですよ。近代に対して近代で対抗しようとしていたのではない。そうではなくてただ単に「腹減った!」と。つまり、オルタナティブで戦っていたのではなくレボリューショナルに戦っていたわけです。それで勝ったわけです。そういうふうに常に前提がないとオルタナティブな仕方でも勝てない、というのはあると思う。

 

ロシア革命でも歴史上では「パンよこせデモ」で勝ったということになってます。でもその間200年のあいだにいろんな歴史があったわけですね。貴族が戦っていた時もあったし、民衆が戦っていたときもあったし、デカブリストの乱とかもあって、200年くらいかけてそれが醸成されて、それで最後にポンと「パンよこせデモ」で革命がおきた。そのときには500人から1000人くらいの人たちが王宮の周りを囲んだといわれているんですが、そんだけの人数で革命がおこっちゃうわけです。でもその一方で、デモ以前の話で、我々の生活のレベルだとか、近代の生活の土壌とはずらされた形、ある種レボリューショナルな形でずっとなにかをやってきたから革命が起きたんです。

 

よく「そのあとアナキストたちは殺されたしダメじゃん」とか言う人もいるんだけど、まあ、そりゃボリシェビキ(※集権的共産党組織を主張したレーニンを支持する革命的左翼)とかが勝っていきはしましたけれども、ボリシェビキに対して言いたいのは「俺たちがいなかったら勝てなかったでしょ」ということ。常にアナキズム的なものがなかったらどの革命も勝てなかったでしょ?

 

もっというと、その「アナキズム的な」という部分で面白いのは、みんなが自分のことをアナキストだと思ってないわけですね。自分で自分のことを「アナキストだ!」と言ってる人ももちろんいるけれど、農作業とかして、天然でアナキズムを実践している人たちがいるんです。ボリシェビキの政権になって農作業に従事してるんだけど、その間、精神としてはある種アナキズム的なものをずっと持ってやっているわけですよ。別にアナキズムというのは、看板を掲げて負けたということはあるだろうけれども、我々の歴史の中でずっと生きてきたし、負けたことない。ってか最強なんじゃないかと思うんですけど(笑)。

 

——アナキズム最強説。

 

 もちろん鶴見さんに依拠すれば、官邸前でデモすることも大切なんです。ちょくちょく森友学園にキレるとかね。運動で反対することも大切なんですけど、それが必ずしもメインにしてはならないと思っていて、官邸前だけが革命だとは思わない。だって、それだったら九州の田舎に住んでいる僕はなんなんですか?ってなっちゃうわけじゃないですか。東京だけが日本なんですか?って。そうじゃない仕方で、土台というか自分たちがなにをもってそこに気持ちを置くかということのほうが僕にとっては大切で、そこにある種のアナキズムなるものがあるんじゃないか、と。その意味で、アナキズムというのはイデオロギーである一方でイデオロギーではない気がします。

 

その辺は栗原さんとかは違うか同じかわかんないし、人それぞれアナキズムというのはあると思うんですけど、人間が土壌をずらしたうえでやってきた知恵みたいなものって、必ずしもアナキズムそのものではなくて、いろんな活字媒体で残っていたりしているんです。

 

——例えば具体的にはどういうものがありますか?

 

 最近亡くなった石牟礼道子さんとかは、近代に対してなんか独自の、石牟礼語としか言いようのない文章書いて、「ぎゃんしてぎゃんしてぎゃんするとよ」みたいな文章かいてたたかったわけですよ。

それと最近水木しげるがすごい好きなんですけど、妖怪っていないけどいるじゃないですか。そういう近代的な枠組みとはずれたやりかたで知恵を絞ってやっているひとを見ていきたいし、われわれはどうやって知恵を培ってきたのかというところを見ていくことのほうが面白い。それに、そうすることで僕らの土台を作っていくことができるのではないか、という気はしています。中沢新一の影響がここにあるのかもしれないけど(笑)。

 

 

僕らがずっと培ってきた5000年くらいの知恵というのは、もちろん哲学にもあるだろうし、社会学にもあるんだと思う。ただその中に埋もれていてちょっとわかりにくくなっている。その埋もれているものをみていく不可視のオントロジーというか、そういうものを見ていくというのが今の僕にとっては課題ということでやっていっています。

 

 

(つづく