アナキズム勉強会Ⅳ —— わたしたちにできる革命とは?〜革命後の世界を生きること〜

Ⅳ わたしたちにできる革命とは?〜革命後の世界を生きること〜

 

特別ゲストの栗原康さん、五井健太郎さん。おねむ?

 

——どうもありがとうございます。質疑応答に入っていきたいのですが、まず一つ目。

この本を読み終わったときなどもそうですが、こうやってアナキズムの歴史を見ていって共感して「革命だあ!」と熱くなりながら、終わってふと目を上げたときに、社会のなかに彼らの思想がいまでもわりと普通に流れていることを感じると同時に、「でもこれ過去の話だしな」と思って「現実」に戻っておとなしくなってしまうのですが、資本主義社会を生きる上でどうやってわたしたちが現実と折り合いをつけながらアナキズムを実践できると思いますか? 具体策などあるでしょうか。

 

 都市というか東京であればホームレスになるとかね。もちろんホームレスに「させられてしまった」という現状もあると思うんだけど、ただその一方で、「ホームレスになる」という自由もあると思っていて、いろんなことぶっちぎってなるべく0円に近い仕方で生きていく、っていうことを選択する自由もあるだろうし、そんなかの知恵というのもたくさんあるだろうしね。そこまでいくと竪川だったり代々木公園だったりだとかいろんな戦い方もあるし、そこら辺はもっと重層的な話ではある気がします。

ホームレスにならなくても、何かしらコミュニティなるものによって助けられるということはあるのではないかな、という気がします。田舎での実践なら、畑とか簡単に借りれて生きていけるようなところに行くとか。それだけじゃないけれど、今それを自分でやってみて自分なりにみなさんに示せればな、と思います。

 

——森さんの今の福岡の生活は、楽しそうと思う反面、村社会ってめんどくさそうだな、とも感じます。田舎特有の共同体のしがらみのようなものはないですか?

 

 東京で一人暮らしするよりはあります。田舎なので他より多いというのはあって、たとえば神社に清掃しにいかなきゃいけない、とかね。でもそれはさぼれるし、あと、そういうのをやっていったほうが自分たちの生きていく環境も多少整備されるというのもある。交換条件ってわけじゃないけど畑で作ったものを貰えるとかもあるし。でも、それは自分の苦じゃない範囲でやっています。苦になる人もいると思う。

ただ僕はこの程度なんじゃないかと思うんだけど、今日、この勉強会、誘われたから無理矢理きたみたいな人もいるんじゃない?(笑)。でも田舎の飲み会とかもそのくらいなんですよね。そこで土着的な思いを背負ってしまう人もいるんだけど、そこまでしなくていいんじゃないかな、っていう気が僕はします。結構無視できるんじゃないかな。ま、それは人とか場所によるけれど。

 

僕の場合は、何もない状態でフランスから日本に帰ってきてビビってたんですけど、「なんか仕事くださいよ」ってたまに嫌々ゴマすって、それで仕事もらったり、意外と誰か助けてくれる。「誰も助けてくれない」って言って東京に帰った人もいるので一概には言えないですけれど、案外なんとでもなるというか、結構自分の中でもなんとでもなってきたというか。もちろん日本学生支援機構から800万の借金はありますけれども、別にね。大学院にも行っちゃったし、奨学金もあるし、バイトもあるし、フランス行ったときも人に頼って、ビラ貼るバイトして、福岡行っても、子供が産まれるのわかってるけど「無職である…死ぬ…!」って思う必要はないというか、行けばどうにかなるというか。

だから最近の我々貧しい若い人たちは、友達を増やしていったりしていくのが生きて行く術なのではないのかしらと思います。

 

 

——先ほどの革命の話にまた戻るのですが、やはり、私たちの生活の中に現にあるアナキズムやコミュニズムを自覚し実践していくことと、革命を志向してゆくことの間に私もどうしても隔たりを感じてしまうのですが、その両者の関係をどう折り合わせていけばいいでしょう?

 

 

 あの僕の本だと不用意に書いてしまったんですけれど、いろんなひとの革命観があるだろうし、マルクスやエンゲルスもあるし、ブランキだってあって、ルクリュにだってある。でも、革命に関してはルクリュがおもしろくて、つまり「オルタナティブとは違うんだ」というところ。オルタナティブとは何かといえば、例えば、普通の近代的な枠組みというのが正規の社員で暮らしていくことだとすれば、オルタナティブなものはバンドマンとか多いと思うんだけど、好きなことをやるためにちょっとバイトして生きていくということ。それがオルタナティブ。で、別にそれを否定するつもりはないんだけど、「革命的」というのはそこからもうちょっと、というか、全部ずらしちゃって、「もう好きなことだけやっちゃってみたら?」ということですね。で、そのときに飯食える可能性だってあるだろうし。好きなことだけやりながらやっていく。

 

山下陽光っていう友人がうまいことをいっていて、『バイトやめる学校』(タバブックス)という本で書いているんだけど、「好きなことに近いことをしながら生きていった方がいいんじゃないの」って言い方をしていて、これって要するに、近代的な枠組み・正規の枠組みなるものに対する相対的なもの、じゃなくて、そこからガラっと変えて生きて行くということなんだよね。例えば、僕って結構革命的に生きていると思うんです。一回も就職活動したことないし、バイトもある時期からしてない。案外そういうふうにバーッと出ていくことで生きていけるようなところはある気がします。そこでなんかズブズブで最低な生をたどってしまうようなこともありうるかもしれないけれど、まあ、案外なんとかなるんじゃないの、という楽天的なところはあるかもしれないです。それが革命観。

あと、ルクリュについて言うと、松本哉さんとかが上手いことを言っていて、「革命後の世界を生きる」でしたっけ? 革命が起こった後のあり方というのを自分たちで先に実践していく、と。自分たちのやっているのは革命後の世界なんだ、と。それは上手いなと思ったし、それってもともと学術的に言えば、プレフィギュラティブポリティクス(Prefigurative Politics)という概念で、これはグレーバーさんが言っていることで予示的政治とかって訳されるんですけれど、あらかじめ革命が起こった体で、革命が起こった後こういうふうにやっていったらいいんじゃない?というのを自分で示して行くということをやっていく、と。ルクリュは結構そういうことをいっていて、革命とは自分で自らをもそれが革命だとして生きて行くことが革命なんだ、という。今、革命は起こってないかもしれないけれど、これは革命後の世界なんだよ、ということを示していく。「自分が革命そのものなんだ!」「俺が革命だ!」くらいでいいんじゃないか、と。どうせ革命起きても嫌なこといっぱい起こると思うから、「いや、その革命だって俺の革命じゃねえ!」くらいの勢いでやってったほうがいいんじゃないかな、という気がします。「理念と現実なるものを実現したのは俺だ!私だ!」と言っていかないと革命そのものにはなっていかないでしょ。

 

僕は僕なりに革命後の世界を生きているつもりです。もちろん現金収入は大学から奪っているし、お金があるのに越したことはないですよ。でもなくても生きていけるでしょ?みたいなことをやっていきたいし、せっかくアナキズムとか言ってるんだから、そりゃそういう風にやってったほうがみんな元気が出るでしょ。それでみんな、「金がなくなったらどうしよう」みたいな気持ちになるかもしれないけれど、「福岡いけば金がなくても生きていける人がいたよね?」みたいなことを思い出してくれるだけで僕はいいというか。それを意識してやっているわけじゃないけど、なんか、あれじゃん。人を元気にしていった方がいいじゃん。

 

 

——なるほど。革命っていうのを集団的な一つの出来事みたいな歴史上のどこかの出来事として考えていたので、その日常の実践というのと隔たりが出てきたんだと思うんですけど、現にあるコミュニティみたいなものがもうすでに革命後の世界なんだと言われると元気になりますね。

 

 

 あ、あと、革命っていつ起きるかわかんないんですよ。暴動とか特にそうなんですけど、たとえば僕が初めて暴動なるものを経験したのは2008年で、釜ヶ崎のいわゆる「釜ヶ崎暴動」なんですけど、あれって突然起こったわけです。あれは交通事故で亡くなったホームレスの方がいて、その方に対する調査を警察がまともにしなかった。名前もあるし、知り合いもいるのに、警察は「死んだね」ってそのままほっといたんです。「ふざけんな」と思うよね。で、ホームレスの友人たちがそれに対して怒ってたら、警察が「お前らふざけんなよ」とやり返してきた。それを「暴動」と名指されたわけですね。突然起こるんです。革命もそうなんです。「パンよこせデモ」だってそう。

 

革命っていうのは突然起こるし、準備して起こるものではない。ただ、準備が仮にあるとすれば、革命後の世界というものを生きている人たちが、そのあとの世界というのを準備しうる可能性はある。たとえば、これは僕の見立てですけれど、東京の出版なんか絶対なくなると思うんです(笑)。50年後とか今みたいに出版社があるとは思わないけれど、そのときに、みんながある種の別様の知恵、別様に生きて行くための知恵があるよ、というのを友達が困った時には示せるというのは自分なりにあります。

 

——今日ここに集まった方々はみんな文章に携わる仕事や勉強をしているわけですが、そんな数十年後には絶滅危惧種(笑)となっているだろう、文章に携わる存在同士として、「書くこと」についてなにか共有できる考えなどがあれば最後にお願いします。

 

 文章って書くと、不思議な事なんですけれど、誰かしら読んでくれる人がいるという実感がこの間10年あって、例えば『現代思想』とかに難しいわけわかんないこと書いても、勉強会に呼んでいただいたり、それこそデリダの言う「誤配」じゃないですけど、どこになにが届くかわからないというか、文章の面白さというのを最近身をもって感じるようになってきて、運にもよるかもしれないけれど、どこかに届く可能性というのがある。その意味で僕は活字の可能性というのを捨てられなくて、運動をやっている人からすると「文章でいくら書いたって無駄じゃん」って言われるんですけれども、無駄です。無駄なんですけど、でも、活字だからこそ届く領域っていうのがある。

 

活字というのは「確実にどこかに届き得る」というのが面白くて、僕は活動界隈の友達というのはたくさんいるんだけれど、僕自身は大した運動をしていなくて(ボクシングとか山登りはするんですけれど)、それ自体に重きを置く・置かないというのは人にもよるだろうけれど、僕にとっての運動の現場というのは、やっぱり、書く事にあるのかなと思う。『アナキズム入門』みたいな本を書いて、こうやって知らない人から連絡いただいて、こうやってしゃべる機会を与えてもらって、そこに関しては、やっぱ活字ってすごいな、やっぱ活字ってやりがいはあるな、って思うんです。

 

 

——どうもありがとうございました。長時間講義お疲れ様でした。

 

 

 

(構成 深沢レナ)

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