ガラスのケースに入れられて ――J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』とグラース家の物語 深沢レナ

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ガラスのケースに入れられて
――J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』とグラース家の物語

 

深沢レナ

 

 僕は、歩きながら、ポケットから例のハンチングを出してかぶった。僕を知ってる人に会うはずがないことはわかってたし、天気がいやにしめっぽかったんだ。僕はどんどん歩きつづけ、歩きながら、昔の僕と同じように今はフィービーが土曜日にあの博物館へ行っているということを考えていた。昔僕が見たのと同じ物を、今フィービーはどんなふうに見てるだろう。そしてまた、それを見に行くたびごとに、フィービー自身はどんな変わり方をしているんだろう。そんなことを考えてると、必ずしも気が滅入ってきたというんじゃないが、またさして明るい気持にもならなかった。ものによっては、いつまでも今のままにしておきたいものがある。そういうものは、あの大きなガラスのケースにでも入れて、そっとしておけるというふうであってしかるべきだと思う。それが不可能なことぐらい承知してるけど、やはりそれは無念なことだ。とにかく、そういうことをいろいろ考えながら、僕は歩いて行ったんだ。
                    ——『ライ麦畑でつかまえて』

 

 

『ライ麦畑でつかまえて』の作中、主人公のホールデン・コールフィールドが妹のフィービーと二人ベッドにこしかけて話し込む場面がある。時期はクリスマス間近。放校処分になったホールデンは両親にばれないようにこっそり妹のところにやってきたのだった。学校のことをフィービーが問い詰めると、ホールデンは学校でのありとあらゆるものごとへの嫌悪をあらわにする。それを聞いたフィービーは彼に対して本質的な質問をなげかける。兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ。違うのなら好きなものを一つでもあげてみて、と。

ホールデンはしばらく考えてから、しぼり出すようにこう答える。「僕はアリーが好きだ」。アリーというのはホールデンの二個下の弟だったのだが、三年前に白血病で死んでしまっていた。その答えを聞いたフィービーは、現実に背をむけて死んだアリーの思い出ばかり見ているホールデンに腹を立てながらも、彼の切実な言葉——好きなものや大切なものが失われていくのをただ黙って見ていることしかできない現実への憤り——に対して口をつぐまずにはいられない。

 

「アリーは死んだのよ——兄さんはいつだってそんなことばかり言うんだもの! 誰かが死んだりなんかして、天国へ行けば、それはもう、実際には——」
「アリーが死んだことは僕だって知ってるよ! 知らないとでも思ってるのかい、君は? 死んだからって、好きであってもいいじゃないか、そうだろう? 死んだからというだけで、好きであるのをやめやしないやね——ことに、それが知ってる人で生きてる人の千倍ほどもいい人だったら、なおさらそうだよ」
 フィービーはなんとも言わなかった。何といったらいいか、言うべきことが思いつかないときには、彼女は黙っちまうんだ。

 

サリンジャーの作品には、この白血病で死んだアリーの他にも、小説がはじまった時点ですでに死者となっている人間が多く描かれている。そして彼らは主人公たちにとって「すごくいいやつ」だと評されるものがほとんどだ。たとえば代表的なのは、グラース家の物語の中心人物であり、兄弟の精神的支柱になっている長男シーモアだろう。彼が最初に——そして唯一——実体をともなって登場したのは『ナイン・ストーリーズ』の冒頭に置かれている短編「バナナフィッシュにうってつけの日」だが、そこで彼はホテルの部屋で寝ている妻の横でピストルを取り出し、唐突に自殺してしまう。この彼の死がグラース家の物語のはじまりとなっている。また、グラース家の三男のウォルトも同様『ナイン・ストーリーズ』収録の短編「コネティカットのひょこひょこおじさん」に出てくるが、この時点で彼は死者として思い出話のなかに登場するだけだ。そして『ライ麦畑でつかまえて』では先に述べたホールデンの弟アリーと並べて、ジェイムズ・キャッスルという自殺した同級生のことが語られている。サリンジャーの小説においては、「最高にいい人間」というのは物語が始まる時点ではもうすでに死んでいるのであって、それはつまり、こういうふうに言い換えることができるだろう。彼らはもう死んでいるのだから絶対に汚れようがないのだ。

彼らは往々にして、ものすごくいい奴だった、信じられないくらい素晴らしい人間だったと評される。だが小説は彼らが死ぬ/死んでいるところからはじめられているために、わたしたち読者はその死んだものたちが実際にはどんな人物であったか直接推し量ることができない。そして舞台から先に一抜けしているから世俗のインチキなものごとに汚される恐れもない。要するに、サリンジャーにとって素晴らしい人間だと思われる者たちは、絶対に汚れることがないようにあらかじめ彼の手で殺されている、というわけだ。

だが死者というものはわたしたちにとって他者ではなく、彼らの実体はそこになく、記憶だけがいつのまにか美化されていってしまう。死んでしまったものたちは、残されたのものたちの記憶のなかで、あらゆる欠点を削ぎ落とされ、純化され、完全な存在となることができる。それに加えてわたしたちにとって非常に都合のいいことに、死者という存在はわたしたち生者を傷つけることがない。裏切ることもなく、説教してくることもなく、とやかく言ってこちらを否定してくることもない。そのためサリンジャーの小説のなかに生きる者たちは死者をあがめてますます美化していってしまう。

しかしもうそれは、自分がつくりだした自己だけの幻想の世界だ。最初は他者であった死者、それも一番遠いところにいたはずの死者を愛せば愛するほど、いつのまにか、わたしたちは世間から隔絶された自分だけの世界に没頭していくことになる。だから死者であるシーモアを愛し、シーモアの読んだ本を読み、シーモアの残した物や言葉を大切にしているグラース家の兄弟たちは、みな俗世間から切り離されることを余儀なくされている。次男のバディは作家だが田舎で隠とん生活を送り、四男のウェイカーは神父である。長女のブーブーだけは主婦として普通の生活を営んでいるが、その下のゾーイーは独身主義の俳優だ。そんな精神性の高い空気を吸って育った末っ子のフラニーが、つきあっている生身のボーイフレンドのエゴにも、大学のなかで現実に身を浸している自分のエゴにも耐えられずに、レストランで倒れてしまうのは当然の帰結なのだろう。グラース家というのはサリンジャーの手によってあらかじめ俗世間から切り離され、特別な才能を持った特別な人々として烙印を押され、永遠に汚れることができないように運命づけられているのだから。彼らはいうなれば、ホールデンが博物館でショーケースをみたときに思った、フィービーをそのなかに入れておきたいという発想をそのまま現実化し、作者によってガラスのケースのなかにきれいなまま密封されてしまった人々なのだ。「グラース(glass)」という名前にあらわされているように。

 

『ライ麦畑でつかまえて』にはホールデンが次のように語る場面がある。

 

しまいに、何をする決心をしたかというと、どこか遠くへ行ってしまおうと決心したんだ。二度と家へは帰るまい、他の学校へも二度と行くまい、そう決心したんだな。フィービーにだけ会って、さよならやなんかを言って、クリスマスのおこずかいを返し、それからヒッチハイクで西部へ出発しよう、そう決心したわけだ。どんなふうにしてやるかというと、まず、ホランド・トンネルまで行って、汽車のただ乗りをやって、次から次と乗りついで行けば、数日のうちに西部のどこかに着くだろう。そこはとてもきれいで、日はうららかで、僕を知ってる者は誰もいないし、そこで僕は仕事を見つけるつもりだったんだ。どこかのガソリン・スタンドに雇ってもらい、ひとの自動車にガソリンを入れたり、オイルをつめたりして働くことを考えた。でも、仕事の種類なんか、なんでもよかった。誰も僕を知らず、僕のほうでも誰をも知らない所でありさえすれば。そこへ行ってどうするかというと、僕は唖でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。そうすれば、誰とも無益なばからしい会話をしなくてすむからね。誰かが何かを僕にしらせたいと思えば、それを紙に書いて僕のほうへおしてよこさなければならない。そのうちには、そんなことをするのがめんどくさくなるだろうから、そうなれば僕も、もう死ぬまで誰とも話をしなくてすむだろう。みんなは僕をかわいそうな唖でつんぼの男と思い、僕のことはほうっておいてくれるんじゃないか。彼らは自分の自動車のガソリンやオイルを僕に入れさせて、それに対する給料やなんかをくれるだろうから、僕は自分がかせいだ金でどっかに小さな小屋を建てて、そこで死ぬまで暮らすんだ。小屋は林のすぐ近くがいい。が、林の中じゃだめだ。だって、僕は小屋にはしょっちゅうよく陽があたるようにしたいんだから。自分の食べ物は全部自分で料理するつもりだが、そのうちに、結婚したりなんかしたくなったら、同じように唖でつんぼというきれいな娘に会って、二人は結婚するだろう。娘は僕の小屋へ来ていっしょに暮らすことになる。そして、僕に向かって何かを言いたいときには、彼女も他のみんなと同じように、紙にそれを書かなければならない。もしも子供が生まれれば、子供はどっかへ隠しておく。そして本をどっさり買ってやって、僕たちだけで読み書きを教えてやればいい。

 

三十二歳のときに『ライ麦畑でつかまえて』を出版したサリンジャーは、それがニューヨークでロング・ベストセラーとなると、ニューハンプシャーのコーニッシュという田舎に土地と家を買い、高い塀をめぐらせて妻と子供と自分とだけで引きこもった。ホールデンの夢をサリンジャーは実際に実現してしまったのだ。あくまでもホールデンは、これは正気の沙汰ではないといって家に戻ってきたのにもかかわらず。

『ライ麦畑でつかまえて』を書きあげたあと、サリンジャーはもはや普通の人々のことを書くのをやめ、グラース家の物語に没頭していく。精神的な深みを求めて東洋思想にも入れ込み、死んでしまった長男のシーモアの物語を掘り下げようとしたのだ。それでも、『フラニー』や『ゾーイー』や、シーモアの結婚式——もちろんシーモア本人は不在だけれども——を描いた『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』までは、単純に小説としての観点から十分楽しめるものだった。だが、そのあとに書かれた『シーモア−序章』、そしてシーモアが小さいときの日記だという『ハプワース16 一九二四』が発表されると、そこで描かれているシーモアという人物の姿に、そしてそこにある閉ざされた空気に、読者たちは混乱せざるをえなかった。そのなかで絶え間なく抗弁を垂れるシーモアは、読者の前に最初に登場したときの、バナナフィッシュのことを話してくれた青年とは別人だった。それはサリンジャーの心のなかにしか存在しない、観念の生き物でしかなくなっていた。つまり、サリンジャーが自分の手で最初に死なせてしまった、最高に魅力的なシーモアという人間を、過去に遡って記憶のなかでよみがえらせようと語れば語るほど、その姿は、非現実的で、ちぐはぐな、おぞましい生き物になっていったのだ。そこにはもう、『ライ麦畑でつかまえて』でホールデンが級友や教師たちを糾弾し、しかし愛さずにはいられなかった人間味のようなものはなく、作品全体を覆っていた距離感やユーモアの温かな感触は消えてしまっていた。だからわたしたち読者は後期の頃の本を読むとそこに読んでいる人間の入る余地が全くなくて途方に暮れてしまうのだろう。

晩年のサリンジャーは、自分の作品の権利やプライバシーを守ろうと訴訟や裁判三昧で、異常なほど神経質になっていった。若い頃から編集者や出版社や雑誌、批評家といった出版業界に不信感を抱いていたわけだが、そんな彼でも、唯一読者のことは信頼していた。むしろほとんど読者のために書いていたといってもいいほどだ。『フラニーとゾーイー』を出版した際も、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を出した際も、批評家達の評価は実際散々なものだった。けれども一般読者たちは、売り上げ——1963年のベストセラーとなった——によって、自分たちはサリンジャーの書くものを愛している、ということを証明した。そこにはたしかに作者と読者の揺るぎない信頼関係があったのだ。サリンジャーはそのとき、本の献辞を妻とふたりの子どもたちと読者に捧げている。

だからこそジョン・レノン暗殺事件のことを知ったとき、そしてその殺人犯はサリンジャーの本の愛読者で「自分はホールデンである」と言い張り、ジョン・レノンを殺した理由を『ライ麦畑でつかまえて』のせいにしているということを耳にしたときの彼のショックは大きなものだったにちがいない。またあるいは、そのときにはまだ軽く考えただけだったかもしれない。そんなものは勝手な言いがかりにすぎない、頭のいかれた一人の人間の妄想にすぎない、と。だが翌年に起こったレーガン大統領暗殺未遂事件も同じく彼の本のファンの手によるものだった。そうして世間はサリンジャーの作品に対して疑いの目を向けるようになった。サリンジャーにしてももはや読者のことが信用できなくなったのだろう。彼はさらに孤独に落ち込んでいった。そこにあったはずのあたたかな信頼関係は失われてしまっていた。そうして彼は、かつて献辞を捧げた読者のために小説を書くことをやめ、作品を自分のためだけに書くようになる。

 

「地獄とは何であるか? つらつら考えるに、愛する力を持たぬ苦しみが、それである、と、私はいいたい」

短編「エズミに捧ぐ」(『ナイン・ストーリーズ』)において、サリンジャー本人を思わせるX軍曹という人物は、『カラマーゾフの兄弟』からの引用であるその言葉を本に書きつける。その本はX軍曹自身が逮捕したナチスの下級官吏のものだった。戦争については何一つ語るべきではないという姿勢を貫いたサリンジャーにしてはめずらしい人物造形である。

若い頃に入隊を経験したサリンジャーは防諜部隊に属し、戦争の間ほとんどいつもタコツボのなかで過ごしてきたという。サリンジャーの娘が言うには——彼は娘のことを溺愛し、生まれた時にはフィービーという名前をつけようとしたほどだったが——娘に対しても、嘘をついたりごまかしたりすることには異常に腹を立てて尋問をしたという。そして彼は、怒りが落ち着いてから、娘に対し、言い訳をするようにこう述べる。「どうしようもないんだ、それがわたしという人間なんだ」。

サリンジャーは終始、戦争中も、戦争が終わったあとでさえも、このX軍曹と同様、「地獄」から抜け出せなかったのではないだろうか。実際、コーニッシュに家を買い、高い塀をめぐらして籠っても、お節介な記者や身勝手なファンたちは次々に押しよせて彼をそっとしておいてはくれなかった。彼の元恋人は彼からもらった昔のラブレターをオークションにかけた。地元の高校生は学校の新聞のインタビューだと偽って取材した彼の記事を売った。彼の名前を騙って勝手に作品を発表するものたちもいた。誰が敵で誰が味方なのかわからない状況だった。ある意味ではサリンジャーは精神的にはまだ戦場にいて、狭いタコツボのなかで、寒くて肺炎になってしまいそうな辛くて長い戦争の日々が終わるのをじっと待っていたのだろう。

小説家としてのサリンジャーはまるで神を演じるかのように、好きなものたちは死の世界に閉じ込め、生きているものたちもグラース一家という箱にしまいこんでしまった。けれど、もしかしたら、サリンジャー自身も、自分をコーニッシュの田舎——まるで要塞のような家のなか——に隠遁させることによって、自分をガラスのケースに閉じ込めてしまったと言えるのかもしれない。高い塀で覆い、汚れた声が入ってこないようにし、外の世界のことなど何も聞かず、何も言わないようにして。そうやってそのなかに入ったまま、今度は自分が出られなくなり、その結果何も書けなくなってしまったのかもしれない。サリンジャー自身がグラース家の一員となり、すべてが静止した世界に浸ったまま、そこから抜け出せずに、成長することができないままに、死んでしまったのかもしれない。実際、わたしたちが彼の本を開いたときに目にするのは、年をとってからのサリンジャーの姿ではなく、いつになっても三十二歳の頃の写真ばかりだ。

だが、あるいはそれは、一つの究極なあり方ではないだろうか。そもそも、小説や詩を書くという行為は、いつまでも今のままにしておきたい何かを、そのなか——文だとか、単語だとか、コンマひとつひとつ——のなかに、永遠に保存しておくような行為なのではないだろうか。わたしは自分がとっておきたいものを言葉にして、本のなかに保存しておく。そして数年後か、あるいは数十年後に、本屋や図書館や父親の書斎だとかで、通りかかったあなたは、偶然、わたしの本を見つける。そのときまでわたしが入れておいたものは、外の空気に触れず、汚されることなく、入れたときのままの形でしまってある。あなたは、その本をひらいて、わたしが見たものや感じたものを同じように手にとって、遠く離れたところでわたしたちはそれを共有する。といっても、そこに入れておくのはちょっとしたものだ。たとえば、雨のなか回る古い回転木馬だとか、歩道の縁石の上を歩きながら間違った歌詞を歌う子供の声だとか。詩がいっぱい書きこまれた野球のミットでもいいし、ガラスの割れた時計でもなんだっていい。とにかく、そんなものをたくさん入れておいて、それからユーモアをまぶして蓋をする。そしてセックスや暴力については一言も触れずに、ただじっと黙りこくっておくのだ。外の連中に何か話しかけられても、啞でつんぼであるようなふりをして。何かを書くというのは、本来、そういうものではないだろうか。きれいだと思うものをきれいなままの状態で、あなたに届けることができないのだとしたら、わたしたちがこうして身を削って書いていることに、いったい何の意味がある?

 

 

 

 

 

 

*引用文献・参考文献
J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳、白水社、一九六四年
J・D・サリンジャー『フラニーとズーイー』野崎孝訳、新潮社、一九七四年
J・D・サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』野崎孝訳、新潮社、一九七四年
J・D・サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモアー序章』野崎孝・井上謙治訳、新潮社、一九八〇年
J・D・サリンジャー『ハプワース16 一九二四』原田敬一訳、荒地出版社、一九七七年
ケネス・スラウェンスキー『サリンジャー 生涯91年の真実』田中啓史訳、晶文社、二〇一三年
マーガレット・A・サリンジャー『我が父サリンジャー』亀井よし子訳、新潮社、二〇〇三年
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文芸春秋、二〇〇三年