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不在の人、麻理——押見修造『ぼくは麻理のなか』における名前と身体  しだゆい

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不在の人、麻理——押見修造『ぼくは麻理のなか』における名前と身体

 
しだゆい

 

 2012年より『漫画アクション』誌上にて連載された漫画家・押見修造の『ぼくは麻理のなか』は2016年に全9巻で完結した。その年ちょうど新海誠監督の『君の名は。』が記録的なヒットを果たしたこともあり、完結に際しては「『ぼくは麻理のなか』は、現時点での入れ替わりの最新表現である」という新海のコメントを記載した帯が全巻に巻き直されている。とはいえこの作品をいわゆる「入れ替わりもの」と呼ぶことは、実のところ少々問題含みかもしれない。というのもそこに生じているのは必ずしも厳密な意味での人格の「交換」ではないからだ。名も知らぬまま密かに「コンビニの天使」と綽名していた女子高生・吉崎麻理の「なか」に入ってしまった「ぼく」=自堕落な大学生・小森功(の人格)が出会うのは——大方の予想に反して——小森功の姿をした麻理ではなく、麻理のことを知らないもう一人の小森功であり(第5話)、必然的に物語は「麻理さんは/どこに行ったんだ?」(第2話)という問いを軸に進められることになる。つまり、これは要するに不在の人をめぐる物語なのである。作品内で幾度となく反復される「麻理」という固有名のうちに私たちは「ゴドー」から「桐島」にまで至るそれらと同様の、ある予兆的な響きを聴き取らねばならない——すなわち麻理のなかにいる小森と、麻理がそこにいないことを唯一看破した柿口依、この二人の崇拝者によって待望される来たるべき者の名前として。

 もっとも、その先に用意された結末は件の問いに対し、麻理は初めからここにいたのだと答えているように見える。そしてそれを踏まえたとき、この作品は一人の少女におけるアイデンティティの崩壊と再統合の物語として——つまるところ多くの押見作品と同様に思春期の終焉を描いたものとして、妥当にも読み解かれることになるだろう。するとこの場合「不在の人をめぐる物語」という当初の印象は、その不在ゆえに彼女が醸し出していた一種神格的なオーラとともにいわば単なるまやかしとして、エンディングを以て全くの無意味となってしまうのだろうか。このような、結末がそこに至るまでの過程をある意味で「裏切る」タイプの物語を解釈する際に、当の過程をすべて単純に切り捨ててしまってよいのだとすれば、しかしそれはあまりに貧しい見方と言うべきではないか。

 そこで以下、私たちは『ぼくは麻理のなか』をあたかも初めて読む人のように、敢えて結末をいったん宙吊りにしつつ、あくまでも「不在の人をめぐる物語」として読み直してゆく。そしてここにはいない者であるとはいかなる事態であるのか、その存在=不在のありようを「名前」と「身体」という二つの観点から考えることで、それが本作の結末とその解釈においてきわめて重要な意味をもつことを示したい。

 

1.名前

 自らが「コンビニの天使」と呼び崇拝してきた少女の身体で目覚めた小森功は、机の上に置かれた生徒手帳から彼女が「麻理」という名であることを初めて知り、その名を何度も口にしながら思わず涙を流す(第1話)。また学校にて、同級生の女子たちに挙動がおかしいことを指摘された小森=麻理の「わたしってふだん/どんな…だっけ?」という問いに、親友のももかは戸惑いつつ「麻理は麻理でしょ?」と答える(第4話)。

 ほんの少し意識をチューニングするだけで、マンガ写植の慣習上ゴチック体で印字された「麻理」の二文字は謎めいた符牒のごとくページの端々に黒々と浮かび上がり、あたかも麻理という存在の一切の重みがその名一つに担われているかのようである。実際、その日の小森=麻理の言動に散々違和感を表明していたはずのももかが、いざふだんの麻理とは「どんな」なのかを問われても無意味なトートロジーではぐらかさざるをえなかったのは、反復されるその名前こそが彼女にとって麻理の本質であったことの証ではないか。このことは物語の終盤に至って前景化される母の問題を予め暗示してもいるわけだが、ひとまずそれは措いておこう。ここで重要なのは、麻理の名をただ繰り返しながら困惑するほかないももかたちに対し、決してその名を呼ぶことのなかった柿口依ただ一人のみが麻理の不在に気づきえたということだ。要するに麻理は麻理と呼ばれているその限りにおいてそこにいる、あるいはそこにしかいない、ということはつまり初めからどこにもいないのである。今ここにいないが必ずどこかにいるということ、それこそ到来を待望される存在たるための条件なのだとすれば、麻理は彼女を「吉崎さん」と呼ぶ依の「おまえ誰だ」という問いをもってようやく、真に不在の人となりえたのだった(第6話)。

 この点に即して物語を追ったとき、依による呼称の微妙なブレが一つの仕掛けとして浮かび上がってくる。まず依は目の前の小森=麻理を端的に「小森」と呼んでおり、したがって彼女の発語する「吉崎さん」は、少なくともある時点までは原則として不在の人を指し示す三人称であった。ところが第14話、吉崎宅に泊まることになった依は小森=麻理の眠るベッドに潜り込み、初めて麻理に宛てて次のように語りかけるのである——「麻理/あのとき/いつもみたいに私が保健室のベッドの中に逃げ込もうとしたとき/あなたがいた」。そうして麻理は突然に依の手を引き、彼女を胸に抱きしめたのだという。

 このとき小森=麻理は眠れないまま依の独白を密かに聞いていたのだが、第42話に至って明らかになるように、彼はそこで語られなかった(したがって本物の麻理でなければ知りようのない)出来事の細部までをなぜか知ってしまっていた。ここから、依は麻理が「どこかに行っちゃった」のではなく「その体の中に眠って」いるに過ぎないのだという仮説を提示する。たしかにこの見立ては、結末に照らす限り真相をおおむね正しく見抜いていたことになるだろう。だが少なくともこの時点では、依の認識はむしろ後退していると言わねばならない。というのも以後しばらくの間、彼女はそれまで抑え込んでいた欲求を一気に開放したかのように学校でも小森=麻理に屈託なく「麻理」と呼びかけ、いかにも友達然として振る舞うようになるのだが、それによって彼女は小森功という人格をいないことにするだけでなく、麻理をその名で呼ぶことによってそこにいることにするという、まさしくももかたちと同様の過ちを犯してしまってもいるからだ。

 この事態について考えるために、第42話における事のなりゆきを「呼称のブレ」に着目して少しばかり丁寧に追ってみよう。

 保健室のことに話が及ぶ直前、依は不意に「麻理さん」という言葉を口にしている。これは専ら小森の用いる呼称であり、ここで依は彼の言い方をいわば引用したのだと考えられる。第三者について、会話相手による呼称を敢えて用いつつ言及するというのはたしかによくあることだろう。しかし第14話以降も三人称的な言及では一貫して「吉崎さん」という呼称を使用していたことに鑑みれば、この何気ない引用は彼女の意識に萌しつつあった何らかの変化を示していると見るべきではないか。事実、続けて依は目の前の小森=麻理に、あたかもそれが麻理その人であるかのように語りかけている——「あのとき麻理が…保健室で抱きしめてくれて/初めて私に近づいてくれて/ほんとにうれしかった/なのに私…/遠くから見てただけで/ごめんね」。保健室の一件について小森=麻理が知るはずのない細部にふれ、それを根拠に依が「麻理さんは中にいる」のだと言い出すのはその直後のことだが、おそらくこの時点ですでに依は、そこにいるのが他ならぬ麻理なのだと暗黙のうちに考えはじめていたのだ。言い換えれば、依が目の前の小森=麻理を公然と「麻理」と呼びはじめたことは実のところなんらラディカルな変節ではなく、一種の惰性から密かに進行していた認識のゆるみがそこでたまたま顕在化したに過ぎないのである。

 したがって真の転機はむしろそのさらに後から訪れる。いくらかの波乱ののち、依はそこにいる者を再び「小森」と呼び、かつそこにいない者を名指す三人称的な呼称として「麻理」という名を用いうるようになるのだ。もはやこの固有名は(少なくとも依によって発語される限り)麻理をそこに呼び出すための呪文ではなく、ゆえに麻理はここに至って初めて麻理として不在であることが可能になる。このことは逆説的にも、彼女の存在をその固有名の軛——すなわち「麻理(の存在)は麻理(という名)」であるとする呪いのようなトートロジー——から解き放つことを意味するだろう。麻理が麻理として不在であるとは、すなわち彼女が自らの名前の外、その名が呼ばれる今この場所ではないどこかに存在を認められるということに他ならない。

 

2.身体

 麻理を不在の人として認めること——しかしながらそれは、裏を返せば今ここに現前している彼女の身体が麻理であるとは決して認めないということでもある。そこにあるのはたしかに麻理の(所有する)身体かもしれないが、それ自体は麻理ではない。そもそも麻理がそのなかにいる/いないという表現自体、一つの人格が特定の身体から切り離されてそれなしに存在しうることを明らかに前提したものだ。その意味で依の見方はきわめて心身二元論的、かつ個人の同一性を「心」のほうにのみ認めるいささか偏狭なものとも思われるかもしれない。むしろ最後まで麻理が麻理であることを疑わないまま戸惑い、そして排除したももかたちのほうが(外見や名前以上の麻理の「内面」にかんして何ら具体的な認識をもっていなかったことを含めて)よほどラディカルだと言って言えないこともないだろう……とはいえ、実のところ問題はそれほど単純ではない。

 まず確認しておくべきは、麻理の身体のなかに小森功という人格が入り込んだのだというのはあくまでも小森=麻理の説明に過ぎず、依は必ずしも最初からそれを信じ込んだわけではないということだ。第8話、自分が小森功であることの「証拠」を見せろと言われた小森=麻理は依をかつて自分が住んでいたアパートへと連れていき、忍び込んだ留守中の室内で学生証を見せながら彼の所属や出身地を諳んじるのだが、それに対し依は次のように返答する――「…べつに/小森功とかいうヤツの個人情報いくら並べられてもね……/その身体が本物の吉崎さんだって証拠にはなってないし」。つまり少なくともこの時点では、依は目の前の存在が身体ごと偽物である可能性も考えている。そして「この身体は絶対麻理さんの身体だよ」と(さしたる根拠もなく)なおも主張する小森=麻理に対し「……信じない」と冷たく言い放つのである。

 ところがこの疑念はすぐさま放棄される。今もこの部屋に住むもう一人の小森が戻ってきたため依たちは急いでベランダへと逃げ込むのだが、そこで二人は彼が帰宅早々にマスターベーションを始めたことに気づく。そして小森=麻理がその姿をおそるおそる覗こうとしたとき、依はその目をさっと塞いで「吉崎さんの眼球で…見るな!」と叫ぶのだ。

 いかにして依がそれをたしかに「吉崎さん眼球」であると認めるに至ったのか、その経緯は一見したところはっきりとは描かれていない。しかしそれに先立つあるシークエンスを一つの手がかりと見ることはできそうだ。それはベランダで息を殺す二人の汗ばんだ腕が密着し「ぴと‥」と音を立て、続いて目を伏せたままの依が「…さいあく…」と呟く二つのコマである。この呟きは漠然と現在の状況全体に向けられたものである可能性も当然あるのだが、直前のコマで二人の身体的な接触が擬音とともに強調されていたことの意味を強いて深読みするならば、次のようにも解釈できるだろう——すなわち依は自らに触れる身体が麻理のものに他ならないこと、信じまいとしていたその事実をまさしく身体でもって感じ取ってしまった、それこそが「さいあく」だったのではないかと。

 もっとも、仮にその身体が偽物だったとしても麻理がそこにいないということに変わりはないばかりか、少なくとも身体だけはここにある今の状況に比べて、それがまるごと偽物であった場合のほうがむしろ事態はより「さいあく」のようにも思われる。ところが依はそう考えない。なぜなら彼女の絶望はあくまでも、それがたしかに麻理の身体であるにもかかわらずそこに麻理(の人格)がいないということ、そのズレにこそ起因しているからだ。つまり依にとってその身体が「本物の吉崎さん」であるとは、単なる物理的な同一性以上に自分がかつてその同じ身体に抱きしめられたということをまずもって意味するのであり、しかし他方では、その身体が今やあの抱擁の記憶を共有していないというただその一点のみをもって、それが麻理であるとはもはや認めることができないのである。

 したがって依は決して麻理の人格をその身体から単純に切り離して考えているのではなく、むしろ自分を抱きしめた他ならぬこの身体とその記憶との結びつきそれ自体にこそ麻理が麻理であることの条件を見出していると言うべきなのだ。おそらくここに、ももかと依の最大の差異があるのだろう。そもそも依が小森=麻理を「おまえ誰だ」と問い詰めたのは、それまで一度も使われたことのない「カワイイ」という語が口にされたことに加えて、泣きながらももかに抱き着くという、依曰く「絶対あり得ない」行動も原因となっていた。そして依のこのような断言がそれでも自分はたしかに抱きしめられたのだという自負に裏打ちされていることは明らかである。実際ももかは小森=麻理が彼女の背中に手を回した瞬間に「イヤッ」と言って身体を押しのけているし、もちろんこれはそのときの「触り方がキモ」かったからだと言われるのだが、それを措いたとしても、彼女は麻理の身体についてもともと何も知るところがなかったのではないか。たとえ「友達」としてのカジュアルな接触は日常的にあったにせよ、彼女の身体がもつ剥き出しの物質性に生々しく不意打ちされること——その経験こそまさに依の特権性にほかならないのだが——など、おそらく一度もなかったのだ。私たちは受肉した存在であると言いながら、本当は不気味でたまらないはずの他者の身体の異質さをふだんはできるかぎり覆い隠すことで日々を送っている。そんなにも薄くて軽く、また透明な身体は、それゆえ名前とほとんど見分けがつかない。こうして麻理の存在は、絶えず反復されるその名前のなかにいともたやすく閉じ込められてしまう。身体の消去と固有名の呪縛はまさしく表裏一体なのである。

 

   *

 

 ここにはいない者であるという麻理の存在=不在のありようは、したがって一方ではその存在を「麻理」という名前の軛から解き放ちつつ、他方ではその不在をたしかにここにある身体の現前と対比的に結び付けるという二重のプロセスを通じて成立している。私たちのアイデンティティを担う最も根本的な支持体にほかならない「名前」と「身体」というこの二つのファクターは、やがて物語の核心をなす主題として前面に浮かび上がり、結末における解決——麻理は初めからそこにいたのだということ——もまた、まさにその延長線上に導き出されることとなる。ゆえに麻理の不在とは決して、単なるフェイクの印象として最終的に否定されてしまうだけのものではない。それどころか彼女の人格が同一性を取り戻しつついっそう高次の統合へと至るためには、正しく不在でありうるという可能性の獲得がどうしても必要だったのである。結末に明かされる真相が少なからず「サイコな」ものであるとしても、そこに至る道のりは必ずしも「精神的な」ものではない。むしろ常に精神の残余としてある名前と身体をめぐってこれほどにも精密なドラマを紡ぎあげたという、その点にこそ本作の最大の達成は見出されるべきだろう。

 

参考文献

押見修造『ぼくは麻理のなか』全9巻、双葉社(アクションコミックス)、2012-16年

 

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ガラスのケースに入れられて ――J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』とグラース家の物語 深沢レナ

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ガラスのケースに入れられて
――J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』とグラース家の物語

 

深沢レナ

 

 僕は、歩きながら、ポケットから例のハンチングを出してかぶった。僕を知ってる人に会うはずがないことはわかってたし、天気がいやにしめっぽかったんだ。僕はどんどん歩きつづけ、歩きながら、昔の僕と同じように今はフィービーが土曜日にあの博物館へ行っているということを考えていた。昔僕が見たのと同じ物を、今フィービーはどんなふうに見てるだろう。そしてまた、それを見に行くたびごとに、フィービー自身はどんな変わり方をしているんだろう。そんなことを考えてると、必ずしも気が滅入ってきたというんじゃないが、またさして明るい気持にもならなかった。ものによっては、いつまでも今のままにしておきたいものがある。そういうものは、あの大きなガラスのケースにでも入れて、そっとしておけるというふうであってしかるべきだと思う。それが不可能なことぐらい承知してるけど、やはりそれは無念なことだ。とにかく、そういうことをいろいろ考えながら、僕は歩いて行ったんだ。
                    ——『ライ麦畑でつかまえて』

 

 

『ライ麦畑でつかまえて』の作中、主人公のホールデン・コールフィールドが妹のフィービーと二人ベッドにこしかけて話し込む場面がある。時期はクリスマス間近。放校処分になったホールデンは両親にばれないようにこっそり妹のところにやってきたのだった。学校のことをフィービーが問い詰めると、ホールデンは学校でのありとあらゆるものごとへの嫌悪をあらわにする。それを聞いたフィービーは彼に対して本質的な質問をなげかける。兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ。違うのなら好きなものを一つでもあげてみて、と。

ホールデンはしばらく考えてから、しぼり出すようにこう答える。「僕はアリーが好きだ」。アリーというのはホールデンの二個下の弟だったのだが、三年前に白血病で死んでしまっていた。その答えを聞いたフィービーは、現実に背をむけて死んだアリーの思い出ばかり見ているホールデンに腹を立てながらも、彼の切実な言葉——好きなものや大切なものが失われていくのをただ黙って見ていることしかできない現実への憤り——に対して口をつぐまずにはいられない。

 

「アリーは死んだのよ——兄さんはいつだってそんなことばかり言うんだもの! 誰かが死んだりなんかして、天国へ行けば、それはもう、実際には——」
「アリーが死んだことは僕だって知ってるよ! 知らないとでも思ってるのかい、君は? 死んだからって、好きであってもいいじゃないか、そうだろう? 死んだからというだけで、好きであるのをやめやしないやね——ことに、それが知ってる人で生きてる人の千倍ほどもいい人だったら、なおさらそうだよ」
 フィービーはなんとも言わなかった。何といったらいいか、言うべきことが思いつかないときには、彼女は黙っちまうんだ。

 

サリンジャーの作品には、この白血病で死んだアリーの他にも、小説がはじまった時点ですでに死者となっている人間が多く描かれている。そして彼らは主人公たちにとって「すごくいいやつ」だと評されるものがほとんどだ。たとえば代表的なのは、グラース家の物語の中心人物であり、兄弟の精神的支柱になっている長男シーモアだろう。彼が最初に——そして唯一——実体をともなって登場したのは『ナイン・ストーリーズ』の冒頭に置かれている短編「バナナフィッシュにうってつけの日」だが、そこで彼はホテルの部屋で寝ている妻の横でピストルを取り出し、唐突に自殺してしまう。この彼の死がグラース家の物語のはじまりとなっている。また、グラース家の三男のウォルトも同様『ナイン・ストーリーズ』収録の短編「コネティカットのひょこひょこおじさん」に出てくるが、この時点で彼は死者として思い出話のなかに登場するだけだ。そして『ライ麦畑でつかまえて』では先に述べたホールデンの弟アリーと並べて、ジェイムズ・キャッスルという自殺した同級生のことが語られている。サリンジャーの小説においては、「最高にいい人間」というのは物語が始まる時点ではもうすでに死んでいるのであって、それはつまり、こういうふうに言い換えることができるだろう。彼らはもう死んでいるのだから絶対に汚れようがないのだ。

彼らは往々にして、ものすごくいい奴だった、信じられないくらい素晴らしい人間だったと評される。だが小説は彼らが死ぬ/死んでいるところからはじめられているために、わたしたち読者はその死んだものたちが実際にはどんな人物であったか直接推し量ることができない。そして舞台から先に一抜けしているから世俗のインチキなものごとに汚される恐れもない。要するに、サリンジャーにとって素晴らしい人間だと思われる者たちは、絶対に汚れることがないようにあらかじめ彼の手で殺されている、というわけだ。

だが死者というものはわたしたちにとって他者ではなく、彼らの実体はそこになく、記憶だけがいつのまにか美化されていってしまう。死んでしまったものたちは、残されたのものたちの記憶のなかで、あらゆる欠点を削ぎ落とされ、純化され、完全な存在となることができる。それに加えてわたしたちにとって非常に都合のいいことに、死者という存在はわたしたち生者を傷つけることがない。裏切ることもなく、説教してくることもなく、とやかく言ってこちらを否定してくることもない。そのためサリンジャーの小説のなかに生きる者たちは死者をあがめてますます美化していってしまう。

しかしもうそれは、自分がつくりだした自己だけの幻想の世界だ。最初は他者であった死者、それも一番遠いところにいたはずの死者を愛せば愛するほど、いつのまにか、わたしたちは世間から隔絶された自分だけの世界に没頭していくことになる。だから死者であるシーモアを愛し、シーモアの読んだ本を読み、シーモアの残した物や言葉を大切にしているグラース家の兄弟たちは、みな俗世間から切り離されることを余儀なくされている。次男のバディは作家だが田舎で隠とん生活を送り、四男のウェイカーは神父である。長女のブーブーだけは主婦として普通の生活を営んでいるが、その下のゾーイーは独身主義の俳優だ。そんな精神性の高い空気を吸って育った末っ子のフラニーが、つきあっている生身のボーイフレンドのエゴにも、大学のなかで現実に身を浸している自分のエゴにも耐えられずに、レストランで倒れてしまうのは当然の帰結なのだろう。グラース家というのはサリンジャーの手によってあらかじめ俗世間から切り離され、特別な才能を持った特別な人々として烙印を押され、永遠に汚れることができないように運命づけられているのだから。彼らはいうなれば、ホールデンが博物館でショーケースをみたときに思った、フィービーをそのなかに入れておきたいという発想をそのまま現実化し、作者によってガラスのケースのなかにきれいなまま密封されてしまった人々なのだ。「グラース(glass)」という名前にあらわされているように。

 

『ライ麦畑でつかまえて』にはホールデンが次のように語る場面がある。

 

しまいに、何をする決心をしたかというと、どこか遠くへ行ってしまおうと決心したんだ。二度と家へは帰るまい、他の学校へも二度と行くまい、そう決心したんだな。フィービーにだけ会って、さよならやなんかを言って、クリスマスのおこずかいを返し、それからヒッチハイクで西部へ出発しよう、そう決心したわけだ。どんなふうにしてやるかというと、まず、ホランド・トンネルまで行って、汽車のただ乗りをやって、次から次と乗りついで行けば、数日のうちに西部のどこかに着くだろう。そこはとてもきれいで、日はうららかで、僕を知ってる者は誰もいないし、そこで僕は仕事を見つけるつもりだったんだ。どこかのガソリン・スタンドに雇ってもらい、ひとの自動車にガソリンを入れたり、オイルをつめたりして働くことを考えた。でも、仕事の種類なんか、なんでもよかった。誰も僕を知らず、僕のほうでも誰をも知らない所でありさえすれば。そこへ行ってどうするかというと、僕は唖でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。そうすれば、誰とも無益なばからしい会話をしなくてすむからね。誰かが何かを僕にしらせたいと思えば、それを紙に書いて僕のほうへおしてよこさなければならない。そのうちには、そんなことをするのがめんどくさくなるだろうから、そうなれば僕も、もう死ぬまで誰とも話をしなくてすむだろう。みんなは僕をかわいそうな唖でつんぼの男と思い、僕のことはほうっておいてくれるんじゃないか。彼らは自分の自動車のガソリンやオイルを僕に入れさせて、それに対する給料やなんかをくれるだろうから、僕は自分がかせいだ金でどっかに小さな小屋を建てて、そこで死ぬまで暮らすんだ。小屋は林のすぐ近くがいい。が、林の中じゃだめだ。だって、僕は小屋にはしょっちゅうよく陽があたるようにしたいんだから。自分の食べ物は全部自分で料理するつもりだが、そのうちに、結婚したりなんかしたくなったら、同じように唖でつんぼというきれいな娘に会って、二人は結婚するだろう。娘は僕の小屋へ来ていっしょに暮らすことになる。そして、僕に向かって何かを言いたいときには、彼女も他のみんなと同じように、紙にそれを書かなければならない。もしも子供が生まれれば、子供はどっかへ隠しておく。そして本をどっさり買ってやって、僕たちだけで読み書きを教えてやればいい。

 

三十二歳のときに『ライ麦畑でつかまえて』を出版したサリンジャーは、それがニューヨークでロング・ベストセラーとなると、ニューハンプシャーのコーニッシュという田舎に土地と家を買い、高い塀をめぐらせて妻と子供と自分とだけで引きこもった。ホールデンの夢をサリンジャーは実際に実現してしまったのだ。あくまでもホールデンは、これは正気の沙汰ではないといって家に戻ってきたのにもかかわらず。

『ライ麦畑でつかまえて』を書きあげたあと、サリンジャーはもはや普通の人々のことを書くのをやめ、グラース家の物語に没頭していく。精神的な深みを求めて東洋思想にも入れ込み、死んでしまった長男のシーモアの物語を掘り下げようとしたのだ。それでも、『フラニー』や『ゾーイー』や、シーモアの結婚式——もちろんシーモア本人は不在だけれども——を描いた『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』までは、単純に小説としての観点から十分楽しめるものだった。だが、そのあとに書かれた『シーモア−序章』、そしてシーモアが小さいときの日記だという『ハプワース16 一九二四』が発表されると、そこで描かれているシーモアという人物の姿に、そしてそこにある閉ざされた空気に、読者たちは混乱せざるをえなかった。そのなかで絶え間なく抗弁を垂れるシーモアは、読者の前に最初に登場したときの、バナナフィッシュのことを話してくれた青年とは別人だった。それはサリンジャーの心のなかにしか存在しない、観念の生き物でしかなくなっていた。つまり、サリンジャーが自分の手で最初に死なせてしまった、最高に魅力的なシーモアという人間を、過去に遡って記憶のなかでよみがえらせようと語れば語るほど、その姿は、非現実的で、ちぐはぐな、おぞましい生き物になっていったのだ。そこにはもう、『ライ麦畑でつかまえて』でホールデンが級友や教師たちを糾弾し、しかし愛さずにはいられなかった人間味のようなものはなく、作品全体を覆っていた距離感やユーモアの温かな感触は消えてしまっていた。だからわたしたち読者は後期の頃の本を読むとそこに読んでいる人間の入る余地が全くなくて途方に暮れてしまうのだろう。

晩年のサリンジャーは、自分の作品の権利やプライバシーを守ろうと訴訟や裁判三昧で、異常なほど神経質になっていった。若い頃から編集者や出版社や雑誌、批評家といった出版業界に不信感を抱いていたわけだが、そんな彼でも、唯一読者のことは信頼していた。むしろほとんど読者のために書いていたといってもいいほどだ。『フラニーとゾーイー』を出版した際も、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を出した際も、批評家達の評価は実際散々なものだった。けれども一般読者たちは、売り上げ——1963年のベストセラーとなった——によって、自分たちはサリンジャーの書くものを愛している、ということを証明した。そこにはたしかに作者と読者の揺るぎない信頼関係があったのだ。サリンジャーはそのとき、本の献辞を妻とふたりの子どもたちと読者に捧げている。

だからこそジョン・レノン暗殺事件のことを知ったとき、そしてその殺人犯はサリンジャーの本の愛読者で「自分はホールデンである」と言い張り、ジョン・レノンを殺した理由を『ライ麦畑でつかまえて』のせいにしているということを耳にしたときの彼のショックは大きなものだったにちがいない。またあるいは、そのときにはまだ軽く考えただけだったかもしれない。そんなものは勝手な言いがかりにすぎない、頭のいかれた一人の人間の妄想にすぎない、と。だが翌年に起こったレーガン大統領暗殺未遂事件も同じく彼の本のファンの手によるものだった。そうして世間はサリンジャーの作品に対して疑いの目を向けるようになった。サリンジャーにしてももはや読者のことが信用できなくなったのだろう。彼はさらに孤独に落ち込んでいった。そこにあったはずのあたたかな信頼関係は失われてしまっていた。そうして彼は、かつて献辞を捧げた読者のために小説を書くことをやめ、作品を自分のためだけに書くようになる。

 

「地獄とは何であるか? つらつら考えるに、愛する力を持たぬ苦しみが、それである、と、私はいいたい」

短編「エズミに捧ぐ」(『ナイン・ストーリーズ』)において、サリンジャー本人を思わせるX軍曹という人物は、『カラマーゾフの兄弟』からの引用であるその言葉を本に書きつける。その本はX軍曹自身が逮捕したナチスの下級官吏のものだった。戦争については何一つ語るべきではないという姿勢を貫いたサリンジャーにしてはめずらしい人物造形である。

若い頃に入隊を経験したサリンジャーは防諜部隊に属し、戦争の間ほとんどいつもタコツボのなかで過ごしてきたという。サリンジャーの娘が言うには——彼は娘のことを溺愛し、生まれた時にはフィービーという名前をつけようとしたほどだったが——娘に対しても、嘘をついたりごまかしたりすることには異常に腹を立てて尋問をしたという。そして彼は、怒りが落ち着いてから、娘に対し、言い訳をするようにこう述べる。「どうしようもないんだ、それがわたしという人間なんだ」。

サリンジャーは終始、戦争中も、戦争が終わったあとでさえも、このX軍曹と同様、「地獄」から抜け出せなかったのではないだろうか。実際、コーニッシュに家を買い、高い塀をめぐらして籠っても、お節介な記者や身勝手なファンたちは次々に押しよせて彼をそっとしておいてはくれなかった。彼の元恋人は彼からもらった昔のラブレターをオークションにかけた。地元の高校生は学校の新聞のインタビューだと偽って取材した彼の記事を売った。彼の名前を騙って勝手に作品を発表するものたちもいた。誰が敵で誰が味方なのかわからない状況だった。ある意味ではサリンジャーは精神的にはまだ戦場にいて、狭いタコツボのなかで、寒くて肺炎になってしまいそうな辛くて長い戦争の日々が終わるのをじっと待っていたのだろう。

小説家としてのサリンジャーはまるで神を演じるかのように、好きなものたちは死の世界に閉じ込め、生きているものたちもグラース一家という箱にしまいこんでしまった。けれど、もしかしたら、サリンジャー自身も、自分をコーニッシュの田舎——まるで要塞のような家のなか——に隠遁させることによって、自分をガラスのケースに閉じ込めてしまったと言えるのかもしれない。高い塀で覆い、汚れた声が入ってこないようにし、外の世界のことなど何も聞かず、何も言わないようにして。そうやってそのなかに入ったまま、今度は自分が出られなくなり、その結果何も書けなくなってしまったのかもしれない。サリンジャー自身がグラース家の一員となり、すべてが静止した世界に浸ったまま、そこから抜け出せずに、成長することができないままに、死んでしまったのかもしれない。実際、わたしたちが彼の本を開いたときに目にするのは、年をとってからのサリンジャーの姿ではなく、いつになっても三十二歳の頃の写真ばかりだ。

だが、あるいはそれは、一つの究極なあり方ではないだろうか。そもそも、小説や詩を書くという行為は、いつまでも今のままにしておきたい何かを、そのなか——文だとか、単語だとか、コンマひとつひとつ——のなかに、永遠に保存しておくような行為なのではないだろうか。わたしは自分がとっておきたいものを言葉にして、本のなかに保存しておく。そして数年後か、あるいは数十年後に、本屋や図書館や父親の書斎だとかで、通りかかったあなたは、偶然、わたしの本を見つける。そのときまでわたしが入れておいたものは、外の空気に触れず、汚されることなく、入れたときのままの形でしまってある。あなたは、その本をひらいて、わたしが見たものや感じたものを同じように手にとって、遠く離れたところでわたしたちはそれを共有する。といっても、そこに入れておくのはちょっとしたものだ。たとえば、雨のなか回る古い回転木馬だとか、歩道の縁石の上を歩きながら間違った歌詞を歌う子供の声だとか。詩がいっぱい書きこまれた野球のミットでもいいし、ガラスの割れた時計でもなんだっていい。とにかく、そんなものをたくさん入れておいて、それからユーモアをまぶして蓋をする。そしてセックスや暴力については一言も触れずに、ただじっと黙りこくっておくのだ。外の連中に何か話しかけられても、啞でつんぼであるようなふりをして。何かを書くというのは、本来、そういうものではないだろうか。きれいだと思うものをきれいなままの状態で、あなたに届けることができないのだとしたら、わたしたちがこうして身を削って書いていることに、いったい何の意味がある?

 

 

 

 

 

 

*引用文献・参考文献
J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳、白水社、一九六四年
J・D・サリンジャー『フラニーとズーイー』野崎孝訳、新潮社、一九七四年
J・D・サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』野崎孝訳、新潮社、一九七四年
J・D・サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモアー序章』野崎孝・井上謙治訳、新潮社、一九八〇年
J・D・サリンジャー『ハプワース16 一九二四』原田敬一訳、荒地出版社、一九七七年
ケネス・スラウェンスキー『サリンジャー 生涯91年の真実』田中啓史訳、晶文社、二〇一三年
マーガレット・A・サリンジャー『我が父サリンジャー』亀井よし子訳、新潮社、二〇〇三年
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文芸春秋、二〇〇三年

批評

象がそこに佇んでいる――別役実の動物論 しだゆい

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象がそこに佇んでいる――別役実の動物論

しだゆい

 別役実の『象』(一九六二年初演)は病院を主な舞台に、一人の入院患者(「病人」)とその甥である「男」の対話を軸として展開される戯曲である。病人はかつてヒロシマで被爆し、時を経て病に倒れるまではときおり大道に立って背中に負ったケロイドを見世物にしていた。男もまた同じく「ヒバクシャ」であるが、叔父とは対照的に自らはただ息を殺してひっそりと生きてゆくことを望み、また叔父にもそうあってほしいと思っている。一方はおのれの実存を意味づけるために過剰な自己露出へと赴き、他方は自分の実在感を極限まで無化することで生の無意味をじっとやり過ごそうとする。互いにベクトルを異にしつつも同じ被爆という経験によってもたらされた歪みのかたちを薄暗い抒情とともに描き出したこの傑作には、ところでどこにも象が登場しない。「象」という言葉すら、表題を除いては一切現れない。もっとも、それ自体はさして珍しいことでもない。タイトルが内容とほとんど、あるいは全く無関係に見える作品などいくらでもある。となると重要なのはなぜ『象』なのかということ――つまりこの作品に固有の命名理由を問うことであるが、それもさしあたり措いておきたい。私たちがまずもって立ち止まらねばならないのは、そのように問う者を襲う、奇妙な疚しさである。

 なぜ『象』なのか。この問いがどこか白々しく響くのはおそらくそれが答えの探し方を予め定めてしまっているように見えるからだ。はじめに『象』というタイトルを認め、しかしそのもとに提示されるテクストのどこにも象そのものを見出せなかったとき、タイトルの意味を問う者はそこに何らかの象的なものを探し当てようとせずにはいられない。要するに「象」を一種の隠喩として解釈しようと試みるのである。実際、それは決して難しいことではないだろう。すなわち『象』というタイトルにおいて別役は自らを見世物としてきた病人の、老いとともに身体も衰えケロイドもシミだらけになってしまった鈍重な実存のありさまを動物園に寂寞として佇む老象の姿に重ねあわせているのであり……等々。

 とりたてて問題のある解釈とも思われない。ところが、この考えは一方である言い知れない抵抗感を呼び起こす。それはその種の解釈が単に安易すぎるからとか、被爆した人間を動物に喩えることに素朴な倫理的疑問を感じるからという以上に、隠喩(もしくは何かを隠喩として解釈すること)一般にときとして伴いうるある種の下品さ、猥雑さがここで不意に立ち現れてくるように感じるためである。この「感じ」はたとえば何か棒状のモノによって男性器を暗示する類いのごく下らない冗談を想起するとわかりやすい。たしかにそれは最も低級な隠喩ではあるが、低級であるがゆえにおよそあらゆる隠喩が潜在的に含意する独特の運動をすぐれて戯画的に示しているようにも見えるのだ。それは隠すべきものを隠すことによって暴くという、一種の欺瞞的な操作である。

 あるものを別のものによって表わすことで、隠喩は前者のもつ意味や本質をいっそう露わに見せることができる。しかしこうした操作は、裏返せば当の対象をそれ自体としては見えなくすること――さらに言えば「直視すべきではないもの」へと、いわばいったん貶めることで成り立っているのではないか。何かを隠喩として利用することへの批判はこれまでもしばしば行われてきたが(たとえば「病い」をめぐって)、おそらく隠喩を用いて指し示される側の対象もまた、その可視化されつつ不可視化される運動において、ある意味で辱められている。つまりそれが動物の隠喩であろうとなかろうと、喩えるという操作を通じて彼の存在に恥の烙印を押していることにこそ、この解釈の不埒さがあるのだ。そして実際、この作品においてはケロイドがまさしく「隠すべきもの」となったとき、病人の人生は明確に破綻をきたしはじめるのである。具体的には「原水爆禁止大会」の演壇上で彼が傷痕を披露してみせたときから――「なぜあの時みんな拍手をしなかったんだい?/熱烈な拍手をするだろうと……ね、思ってたんだよ。/観客はシュンとしている……。/〔中略〕気が付いたら観客は、だあれも居ないんだよ。/だあれも……居なかった」「あの原水爆禁止大会があってからいけなかった」「俺はそれから、見物人を喜ばせようなんて考えなくなった」。

 あるものを隠すことでいっそう露わにするというこの欺瞞は、したがってある種の偽善をも含んでいる。ケロイドを見て喜ぶのは政治的に正しいことではないという意識の高まりが、逆説的にも病人から生きることの支柱を奪ってしまうというわけだ。原水爆禁止大会のとき以来、彼は観客がケロイドではなく自分の「眼」を見ていることに気づく。人々はケロイドを直視することをせず、ただ眼を媒介として、彼の自己意識を通じて間接的にそれを捉えようとするのだが、それはそうすることでその傷のもつべき意味をよりよく見ることができるからにほかならない。

 ところがそのことをすでにはっきりと感じ取っていた男は、叔父に対し苛立ちを露わにしつつ次のように言い放つ――「もう誰も僕達を殺してくれる人なんか居ないんです」「「ケロイドが、伝染るといけないから」なんて言う人が居ますか?/誰もそんなこと言いやしない。誰も言いやしませんよ。/〔中略〕ねえ、それじゃまるで僕達は愛し合ってるみたいじゃありませんか?/そうでしょう。僕達を殺したり、僕達の悪口を言ったりするのは禁じられているんです。そういうシクミになっているんですよ。だからみんなニコニコしています。愛し合っているみたいなんです」。ところが病人にはこの理屈がわからない。彼は甥の言葉を受けて、嬉しそうに答える。「そうなんだよお前、俺達を愛してくれる人も居るんだよ」「俺達は愛し合っているんだよ」……そして最後の最後まで、その証しを自らの身体によって手に入れようともがくことを止めない。二人のコミュニケーションはこうして、どこまでもすれ違い続ける。

 自らをできる限り不可視化することによって、直視しうる理解可能な存在として包摂されることを選んだ男は、「隠すべきものを隠すことによって暴く」という隠喩的なまなざしのシステム(「シクミ」)を受け入れ、そこに取り込まれたいと願う。それに対し自らの身体をそのものとして視線のもとに晒そうとする病人は、結局のところ当の視線によって不可視の領域へと追放されざるをえない。したがってそれを「象」という隠喩によって再び理解可能なもののうちに取り込もうとすること――彼の生のありようをいくつかの属性に還元しそれを象として表象し直すことは、この悲劇に対する端的な裏切りと言うべきだろう。私たちは彼を彼として直視すべきなのであり、裏返して言えば同時に「象」なるものについてもまたそれを象そのものとして直視しなければならない。作品の入り口に佇む象の姿を、その一見した無意味の様相のまま佇むに任せておく必要があるのだ。ゆえに私たちが問うべきは「なぜ象なのか」よりもまず、別役にとって「象とは何か」ということである。そしてそうすることで象がそこに佇んでいることの意味が再び、隠喩という予定調和的な解決とは別様の仕方で見出されることになる。

 評論集『電信柱のある宇宙』に所収の「私と動物」と題する短いエッセイを、別役はある一本の電話に関するエピソードから書き起こしている。電話の主はさわやかな若い女性の声で「アンケートにお答えください」と言い、続いて有無も言わさず「猫はお好きですか」と問う。それに対し別役が「嫌いです」と答えると、次は「じゃあ、犬はお好きですか」と訊かれる。やはり「嫌いです」と彼が答えたところ、女性はなぜかひどく戸惑った様子で「何故ですか」と言うのだ。それでしばらく黙って考えてみたのだが、向こうが沈黙に耐えかねたのかそのまま、電話は切れてしまったという。

 これが実際にあった話かどうかは措くとしても(なにしろこれは別役実のエッセイなのだから)、続けて綴られる動物観そのものはあくまで彼自身の切実な体感を伴っているように思われる。「どんな動物が好きですか」と訊かれて「好きな動物はいません」としか答えることができないのは、何らかの動物を飼ったり、触ったり、抱いたり、可愛がったりする気が彼にはないという意味であり、それは必ずしも「関心がない」ということを意味しない。関心の有無について言うなら、彼はむしろ動物に対して「かなりの興味を抱いている」というのである。「たとえば」と彼は言う「牛や馬や象など、私よりも図体の大きい動物に出合うと、そのことだけで手もなく感動してしまう」。しかしその感動を「好き」などという言葉に置き換えることはできない。好きかどうかと問われれば「私は、象はやはり「嫌い」の方に分類するだろう。しかし、出合って感動はするのである」。

 別役によれば「象を象たらしめている要素」は「大きい」ことと「汚い」ことの二つに集約される。「つまり、私が象から受ける感動というのは、そうした救い難い汚さを、かくも大きくまとめあげた、と言う点にあると言ってもいい」「生きていること自体が面倒臭そうであり、もっと言えば、それらが象としての形になっていること自体が、面倒臭そうである。もしかしたら象は、毎日、自分が象であることに、背筋の寒くなるような思いをしながらいきているのではないか、とすら思われる。こうした象の、象たるがゆえのやりきれなさが、私にはよくわかるのだ」……。とはいえ、隠喩的な解釈を拒む私たちにとって重要なのは、別役が象の本質をどう捉えているかということではない。むしろ注目すべきはこの「わかる」という表現である。彼は「好き」という言葉に還元することのできない動物への「興味」や「関心」を「理解」と言い換えていた。すなわち「どんな動物が好きですか、と聞かれても、好きな動物はいません、と答える以外にないが、どんな動物を理解していますか、と聞かれたら、さほどはにかむことなく、象です、と答えることが出来ただろうと思う」と。

 したがって、ここで問題にされているのは愛を伴うことのない理解、むしろ愛と相反するような理解のありかたである。別役は動物を「好き嫌い」で判断する人を「余り信用したくない」と述べ、猫や犬が「好きです」とか「家族同様にしてます」と言って愛撫している姿を見ると「ぞっとする」とさえ言い放つ――「それは確かに「好き」には違いないだろうが〔中略〕「理解はしていない」に違いないからである」。

 ただしこの別役のスタンスは、動物に対する一方的な愛玩は人間のエゴである等々というありふれた道徳的非難とはおそらく似て非なるものだ。動物のことをよりよくわかっているからこそ自分は敢えて突き放した態度をとるのだという訳知り顔のマウンティングなら、どこにでも転がっているだろう。それに対し別役が動物に対する関係を「理解」という言葉で表明するとき、そこには絶望的なまでのディスコミュニケーションの感覚が避けがたく伴っている。重要なのはそこである。エッセイの末尾で別役は、はじめて自分の娘と上野動物園に行ったときのことを次のように語っていた。彼は「娘を抱き上げて、象を指さして言った。/「ほら、あれが象さんだよ……」/しかし、それ以上、何をどう伝えていいのか私にはわからなかった。動物は、難しいのだ」。

 動物は難しい――たとえそれを「理解」できたとしても、その理解は言葉によって伝達しえないものであり、したがって意味へと終着することがない。ゆえに象が象として理解されるというとき、それは先に見た「隠すべきものを隠すことによって暴く」隠喩的なシステムへの包摂とは無関係なところで生じている。まるで愛し合っているかのような、そんな見かけを伴うこともない、それは社会の「シクミ」によってもたらされる理解可能性とは全くかけ離れた、ほとんど無理解と見分けのつかない「理解」なのである。こうして私たちは『象』というタイトルの意味をめぐる最初の問いに帰り着く。すなわちそれはあの病人を(あるいはそのほかの誰かを)象として見ることを禁じながら、しかし象を見るように見ることを厳格に指定しているのではないか。別役にとって象とは、いわばある種のまなざしのモデルなのだ。愛することも包摂することもなく、いかなる証しも欠いた状態の、しかし「理解している」としか言いようのない他者への関係。たとえば男は叔父である病人の「ケロイドの裸男」としての生き方を嫌悪しつつ、たしかにそれを「理解」していた――あるいはどうしようもなくわかってしまったのだと思う。そのような極限的で、ともすれば絶望的な「理解」の関係が作品のうちで(男と病人、病人と妻、妻と通行人等々もしくは彼らと私たちのあいだに)張りめぐらされる、というかたちでそこには象が偏在している。彼らは、そして私たちはそうした関係性において、隠喩ではなく――ということはいささかも象に似ることなしに、象になるのだ。テクストの門口に印字された一頭の象の存在はおそらくそのための導きとして、暗い予感のようなものを帯びたままじっとそこに佇んでいるのである。

註記
 本稿における引用はもっぱら以下の二冊からおこなった。なお原文における傍点箇所は太字に置き換えている。

 別役実『別役実I 壊れた風景/象』ハヤカワ演劇文庫、2007年
 別役実『電信柱のある宇宙』白水uブックス、1997年

 ところで本稿は副題に「別役実の動物論」と銘打ちながら事実上『象』の読解に終始したものであり、看板に偽りありとまでは言わずともいささか不十分の感は否めない。別役の動物に関する考え方を真正面から論じるためには『獏』などをはじめ動物がより直接的なモチーフとして登場する他の戯曲に加え、諧謔に満ちた動物(偽)誌『けものづくし 真説・動物学大系』(平凡社、1982年)のとりわけ「動物園」の項を取り上げないわけにはいかないだろう。ここで別役は「私と動物」の末尾に触れられた「我が子に象を見せる」という経験をより詳細に、発展させたかたちで論じている。

 また上記の引用文献とは別に、本稿の準備段階においてジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる『千のプラトー 資本主義と分裂症』(宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010年)第10章を再読していた記憶が、とりわけ結論部の「象になる」なとどいう(唐突かつ少しばかり軽率な)記述に影響していることもここで白状しておく。とはいえドゥルーズもまた別役と同様、愛玩動物に対し強い抵抗感を表明してはばからなかったことを思い出すなら、これはあながち無根拠な参照でもないかもしれない。この点は別稿を期したい。

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正しく恋に落ちないこと――佐々木倫子の「君の名は」 しだゆい

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正しく恋に落ちないこと――佐々木倫子の「君の名は」 

しだゆい

 

 

 昨年、新海誠監督の『君の名は。』がおおいに流行した。このタイトルは、周知のとおり敗戦まもない1952年から放送されこちらも当時おおいに流行したというラジオドラマ『君の名は』を下敷きにしている。『君の名は』から『君の名は。』へ――これは京マチ子から今日マチ子へのそれにも匹敵するエポックメイキングな(知名度のうえでの)交代劇であったと思うが、ここではそのいずれとも隔たったところで、流行とは無縁にひっそりと著されたもう一つの「君の名は」を取り上げたい。それは『動物のお医者さん』で知られる漫画家・佐々木倫子の初期連作「忘却」シリーズのなかの一篇である。

 佐々木の「忘却」シリーズは、視力も記憶力も特に問題ないにもかかわらずなぜか人の顔を覚えるのが異様に苦手な高校生・黒田勝久を主人公とする各話読み切りのコメディ作品だ。当然ながらどのエピソードも勝久が誰かの顔を覚えられない、あるいは思い出せないことが話を動かすギミックとなっているのだが、ここで論じる「君の名は」は、この基本設定がもっともシンプルかつ効果的に用いられたシリーズきっての佳作であると思う。
 家族で山菜取りに来た勝久が愛犬・ルイと木の下で休んでいると、ふいに近くの茂みから物音がして大きなヒグマが現れる(舞台は北海道)。目を逸らすこともできず、今さら死んだふりもできず、かといって逃げれば追われるという膠着状態のさなか、突如カンシャク玉が爆発、砂埃の舞うなか何者かに手を引かれ勝久とルイはヒグマから逃げ出すことに成功する。助けてくれたのは見知らぬショートカットの少女。「もうだいじょうぶだと思うけどこれあげる」と予備のカンシャク玉を手渡し颯爽と去りかけるところを呼び止め、勝久が「君の名は…?」と尋ねると、彼女は少し考えたのち「…じゃあ一か月後にここで会うことにしましょう」と答えるのだった。
 この少女は名を浅羽莢子といい、実は勝久と同じ高校に通う同級生、しかもかねてより彼にほのかな恋心を抱いていた――「みんなは黒田くんのことをトンチンカンな人だと言うけれど/私はそれほどとも思わない」。目を閉じ、思わずほころぶ口許をしとやかにノートで隠しながらのモノローグでなければ恋しているとも察しがたい、きわめて絶妙な表現だ。とはいえ出会いの翌日さっそく校内で勝久と遭遇しかけた莢子が“一か月後の再会”という演出をぶちこわさぬよう身を隠す場面で、彼女は確かに「やっぱり恋愛には舞台効果っちゅうもんが重要なんだからして」と明言しているし、腐れ縁らしき友人・佳葉が彼女の期待に水を差せば「あの時はたしかに恋愛のはじまりみたいな雰囲気があった!」と言って食い下がる。かなり輪郭の定かな、意外にもふつうの片想いなのである。
 たとえば『動物のお医者さん』がそうであったように「忘却」シリーズにおいてもベタな色恋沙汰が描かれることはあまりない。勝久のワンテンポずれた物腰にはそもそも恋愛への関心自体を見出しにくいし、三本木というバディ(幼稚園以来の幼馴染で、人間関係はほぼ重複しているので勝久の覚えられない顔は基本的に彼が記憶している)とのズブズブな関係もその印象を念押ししているところがある。この二点は『動物』のハムテル(と二階堂)にも共通することだけれど、にもかかわらず――あるいはそれゆえに一層――私たちは彼らの描かれざる恋愛事情をめぐってついつい二次創作的な妄想をいだきがちであるようにも思われる。おそらくその理由の一つが、勝久もハムテルも作画上、美形と判断しうる余地を多分に残しているということだろう。こう何やら煮え切らない言い方になってしまうのは、佐々木作品においては女性も男性も基本的に美しく整った顔立ちで描かれるからにほかならない。もちろんこれはおおよそ少女漫画一般に認められる傾向で、仮にある人物の容姿が比較的冴えないとされる場合も、そのことはクセっ毛やそばかすなど副次的な特徴によって控えめに表象されるにとどまり、骨格や体形レベルで作品世界の標準的なボディデザインの型を逸脱することはおそらくあまりない。ただ、そのなかでも佐々木作品は容姿の差異を示す表徴がとりわけ徹底して希薄にされているのである。
 たとえば同シリーズ中の一篇「山田の猫」に「日本的美観からいって美しいとはいえない」という設定の女性が登場するのだが、彼女が(変わり者であることは明らかであるにせよ)美人でないことを姿そのものから読み取るのは難しい。周囲の人物の反応から判断するか、もしくはその奇抜なファッションセンスが、特定の社会において設定された一般的な美の基準からの逸脱をかろうじて視覚的に表示しているにすぎない。つまり佐々木の作品世界において人物の美醜は物語設定上の単なる取り決めとして、登場人物の顔や身体からは完全に外部化され、非本質化されているわけだ。実際「君の名は」の莢子についても、勝久は「かわいい」、佳葉は「十人並み」、本人は「そんなにブスではないと思うんだけど」というように作品内の評価は必ずしも一定せず、読者がその容姿をどう見るかはある程度、個々人に開かれている。ましてや容姿をめぐる評価が作品内でほとんど明示されることのない勝久が「格好いい」かどうかを画に基づいて決定することはまず不可能であり、翻っては「モテている雰囲気はないけれど、実は格好いいのではないか」という仮説を個人的な妄想の範囲内で展開することも可能となる。密かに推す、という甘美なスタンスを読者に許すのである。ここで先述の「みんなは黒田くんのことをトンチンカンな人だと言うけれど/私はそれほどとも思わない」という言葉を思い出すならば、この隠微で両義的な言い回しは、公式設定の保証を欠いたまま「実は…ではないか」という曖昧な予感を萌していた読者の心理をそのままなぞっているようにも読める。この意味で、莢子は一種メタ的な視点で勝久を慕っていると言えるのではないか。要するに彼女の登場が勝久の作品内の立ち位置に大きな変革をもたらすことはないのであって、それは明らかに冴えない主人公に訪れた僥倖というわけでもなければ、かといって彼がモテることの証明材料にもならないのである(そういえば新海誠の『君の名は。』では主人公・瀧を、三葉の言葉で「東京のイケメン男子」としてはっきりと定義していたが、そうした含みのなさは本作と非常に対照的だと思う)。莢子の恋は作品の世界観をなんら揺るがすことなく、彼女のときめきは妄想する私たちのときめきと実にたやすく重なりあうことになる。

 物語を読み進めよう。勝久との思いがけない遭遇を避けようとした莢子だが、間も悪く佳葉が声をかけてきたため彼の視界に入らざるをえなくなる。ところが莢子の顔を全く覚えていない勝久は当然のように彼女をスルー、さすがに衝撃を受ける莢子――「だってきのうのきょうで/仮にも私は命の恩人よ」。さらに追い打ちをかけるように、複数の知人から連続して名前を間違えられるという出来事も経て彼女は急速に自信を失いはじめる。「私は印象が薄いのかもしれない」「印象の薄い私と記憶力の悪い黒田くん/デートのたびに自己紹介してたりして」……それはそれで(メルヘンとして眺めるぶんには)素敵な気もするのだが、結局、莢子は約束の場所に行かないでおこうと決意してしまう。すでに夏休みに入っていて、二人が出会う機会はもうほかに残されていないにもかかわらず……。
 一方、勝久は勝久で、ヒグマから逃げ出す際に莢子がルイの名を呼んでいたことを思い出すなどあって、彼女が以前から自分を知る高校の同級生であることをなんとなく察しつつあった。三本木たちにも心当たりを尋ねつつ、しかし確証の得られぬまま約束の場所に赴くものの、莢子は来ない。日も暮れていよいよ諦めかけたそのとき「ごめんなさい、おそくなって」との声とともに現れたのは、なんと佳葉だった――泥沼の予感である。
 莢子は黒髪ショートカット、佳葉は腰まで伸びた巻き髪。さすがの勝久も第一印象で「ちがう」と感じる。しかしあのときは三つ編みにして頭にまいていたのだという佳葉の言いわけを受けて「ぼくのこの種の判断は8割がたはずれる/…ということはこの場合やはりこの人で「正しい」んだ」と、あっさり納得してしまうのだ。根深いコンプレックスに由来する自らへの疑いと諦めにより直観は否定され、判断は歪められる。まぎれもなく本作中もっとも切ない一幕だが、ここで目を引くのは「正しい」に付された鍵括弧である。文脈上、この“正しさ”は目の前の人物とあのとき自分を助けた少女との“合致”を基本的には意味していると思われる(この人で「合っている」という意味の「正しい」)。だが括弧による強調はこの語にもっと強い、ある種の倫理的なニュアンスを与えないだろうか――あたかも、あの日の少女に再会することが彼にとって一つの正義を含むかのように。
 さて佳葉をカンシャク玉の少女と認めることにした勝久はその後、彼女を自宅の庭に誘い二人でルイに水浴びをさせて遊ぶのだが、その「デート」はいかにも不本意に課せられた義務として描かれていた。途中ジュースを買いに行くと言って抜け出した勝久は渋い表情でこう呟く――「デートというのは疲れるものだなあ」「いやしかし労働があるからこそ休みがありがたいのだ/楽あれば苦あり/人生とはそういうものだ」。佳葉との語らいは勝久にとって労働、義にかなうべき務めにすぎないのである。それゆえ家族からガールフレンドができたことを祝われても彼は浮かない表情だ。「なにか釈然としない/どこかまちがってるような気がする」。どこか間違っている――つまり間違いの所在は少なからず曖昧なのであり、したがってこの間違いは単なる“人違い”などではなく、もっと漠然とした状況全体の過ちを示唆していることになる。たとえばあの日助けてくれたのは彼女であると自分が認めただけで、特にそれ以上の手続きなしに「GF(ガールフレンド)」と呼ばれる相手を得るに至るという、この奇妙にオートマティックな進展そのものに潜む不正を。
 しかし事態はもう少し複雑である。仮に状況そのものは不正であるとしても、あくまでも勝久自身は正しく義務を果たしていた。彼は自分を助けた者に対し正しい行いによって報いなければならないと考える。佳葉をガールフレンドとしてデートすることは、後述するように少なくとも佳葉という他者に対しては正しい応答の仕方なのである。問題は正しく応答すべき相手がほかにいるということ、つまりそれが間違った正しさであるということにほかならない。では本当の、正しい正しさとは何か――本作の面白さは、それが単にデートの相手を莢子へと修正することではないというところにある。

 莢子は勝久の家の前を通りかかったとき、彼と佳葉のデートを目撃していた。そして勝久が「休憩」のためジュースを買いに出た隙に佳葉を呼び出し「黒田くんのこと好きでもないくせに!」と非難する(それに対する佳葉の「そんなことわからないでしょう?」という返答もすこぶる味わい深いのだが、ここでは深入りしないでおこう)。怒りに震え「私だって黒田くんに会うわ!!!」と叫ぶ莢子、そして後日ついに二人は揃って勝久の前に現れ、競い合うように自分が本物だと主張し「黒田くんどっち!?」と決断を迫るのだ。
 莢子の登場によりさすがの勝久もどちらが本物かすぐに気づくのだが、なかなか答えを口にすることができない。なぜなら「一度佳葉さんを認めてしまった以上こちらに責任がないとはいえない/ましてどちらかを選ぶなんて」到底できないから。勝久の優しさと愚かさが典型的に示された一節だが、彼が逡巡しているうち莢子はふいに全てを諦めたような表情となり「私が嘘をついていたのよ」と言ってその場を去ってしまう。弁解のいとまもなく完全な悪者として残された佳葉、そして失意に沈んでゆく勝久……。
 ところで、ふだんは一緒に遊びに出かけるほどの友人である莢子に佳葉がこのような常軌を逸した意地悪をしたのには幼稚園時代の因縁があった。近所に住むケースケくんという男の子に自分たちのうちどちらと結婚したいかと迫ったところ、彼は莢子を選んだのである。そのことを根にもっているのだろうと指摘され「フン! べつに私は器量が劣ってるから負けたなんて思ってないわ」と強がる佳葉に対し「わかってるわよ/みんな佳葉を美人だと思ってるわよ/それでいいじゃない!」と答える莢子。ここまでくると莢子の圧倒的な器の大きさが際立ってくるが、それはともかくここで興味深いのは、佳葉が自らの容姿に対してもつこの確固たる自信である。先ほども述べたように、佐々木の作品においては登場人物が「美人」であるかどうかを単純に作画から読み取ることは難しく、言語化された周囲の評価や、あるいは服装や振る舞いにかろうじて示されるにすぎない。そのなかで佳葉は繰り返し自分の容姿を誇り、また「みんな美人だと思っている」という他者の証言まで取り付ける。要するに美しさが取り決めでしかない世界のなかで彼女はその取り決めを力ずくで作り上げてしまったのだ。そうなるともはや私たちは佳葉を一義的に「美人」と規定せざるを得なくなる。もっとも勝久は、80年代風のトサカを豊かに湛えたその華やかな髪型を「前髪が(記憶のなかの少女よりも)うっとうしいような気がする」と一蹴しているし、三本木たちに少女の特徴を説明する際には満面の笑みで「かわいい」と言っていた割に、目の前の佳葉の美しさにはほとんど心を動かしていないようだ。とはいえ彼の陥った状況を客観的に形式化するならばそれは「誰もが認める美女との交際」なのであり、そしてそのことこそが「どこかまちがってる」と感じられていたのである。
 美女=佳葉との交際の成就が侵犯したもの――それはまさしく私たちの妄想する自由にほかならない。具体的な恋愛事情を直接的には描かずそれをつねに潜在的なものに留めておきながら、格好よさの程度さえ読み手の想像に委ねるという作品の基本スタンスに対して、交際の成就はそこで与えられているはずの二次創作的妄想のポテンシャルを無効化してしまう。というより、ほとんど能動的に自らを「美人」としてはばからない佳葉の存在自体がそもそもそこに別種の法をもちこむ異分子なのだと言うべきかもしれない。佳葉が体現する異質な法とは「恋愛」のコードである。愛の告白等々の手続きを一切踏むことなく、また互いへの好意を宙づりにした状態で半ば自動的に恋愛関係を結ぶことは、それゆえコードの遵守という意味では「正しい」行いとなるだろう。だがそのコードは結局のところ異郷の法にすぎないのであり、したがって作品本来のコードに照らすならばその正しさはあくまでも間違った正しさでしかありえなかったのである。
 それに対して作品本来のコードを体現する存在が莢子だ。その証拠は物語の最後、勝久と莢子の再会のシーンに見出されるだろう。夏休みも終わるころ、ふと思いついて莢子が約束の場所を訪れてみると、そこには勝久がいる。彼は彼女に謝るためにたびたびその場所を訪れていたのだ。「あの時きみが本物だとわかったけれど言えなかった」「私こそ約束をすっぽかしてごめんなさい…」とひとしきり謝罪が交わされたのち、莢子は勝久に思いを告げる――ところがそのとき勝久は「えっ」と驚き「そういう方向に話が進んでいたとは/こ…これは喜ぶべきことだよな/信じられないが」と戸惑うのである。佳葉を当たり前のようにガールフレンドとして受け入れていたことを思えば、彼のこのぎこちなさはいかにも奇妙に映る。だがこの困惑こそ莢子への正しさと佳葉への正しさとの根本的な違いを証し立てているのではないだろうか。先にも述べたように莢子は、実は格好いいかもしれない勝久をめぐる私たちの妄想とも重なりあう一種メタ的な視点から勝久に恋をしていた。しかしこのことは同時に、莢子と勝久が作品の内部においてアクチュアルに交際を成就させることを予め禁じるものでもあるはずだ。だからこそ勝久は莢子の告白を予期しえなかったのであり、また実際にも禁止は厳しく適用される――その時点ですでに、莢子は父親の転勤にともなって夏のうちに北海道を去ることになっていたのだから。

 手紙書くねーと言って/浅羽莢子はハレバレと去っていった

 莢子の去り際は実に爽やかなもので、あたかも告白を遂げた瞬間に恋心そのものがほどけてしまったかのようでもある。二次創作的妄想の自由を体現する者として、彼女は恋人未満のまま姿を消すよう運命づけられていたのだろう。最後のコマでは、かつて「GF(ガールフレンド)」ができたことを言祝いでいた際と同じ笑顔で「よかったねペンフレンドができて」と言いつつ、家族が勝久を取り囲んでいる(勝久は腕にルイを抱き、目には涙を浮かべている)。これは彼と莢子とが決して遠距離の恋愛関係にはないことの冷徹な念押しであるようにも読めるが、何度も言うようにほかならぬこの勝久の傷心こそが、莢子あるいは来るべきほかの誰かとの関係を私たちの側の妄想の領域に委ね、そこに自由を保証しているのだ。それが勝久の選んだ正しい正しさだったのである(ここで再び新海誠作品との対照を試みるとすれば、構造的にはむしろ『君の名は。』よりもはるかに共通点の多い『言の葉の庭』を想起するべきだろう。結末において主人公と教師はまさにここで言う「ペンフレンド」となるわけだが、そこでは恋愛の余地が曖昧に残されているぶんむしろ生々しい破局が「現実」として示唆されているようにも感じられた)。

 実質はどこまでも仄かで、しかしあくまでも力強く「恋愛」を標榜しつつ、それでいて最後には風のように去ってしまう莢子の思いは確かに、作品世界の均衡と読者の妄想いずれにとってもあまりに都合よくチューニングされている。だが莢子の存在は(あるいは佳葉もそうかもしれないが)図式的に分析し解釈することの不可能な感性を構造の豊かな余白として携えている限り、決して抽象的な法ないしコードに還元されることはない。勝久に思いを告げるときの莢子の語りは「私はそれほどとも思わない」の奥ゆかしい屈託と響きあいながら、彼女と勝久の本質を美しく照らし出している――「私ね黒田くんの家の前を通ったことがあるのよ/ルイがものほしの柱のところにつながれていて/柱のまわりをぐるぐるまわって引き綱が短くなったところでころんで首輪にひっぱられていた/そこに黒田くんが出てきてアンパンでルイをひきもどそうとするんだけど/ルイはどうしても同じ方向にまわろうとするの/私それを見て黒田くんが好きになった」。

 人を好きになるというのは、たぶん本当はこういうことなのだと思う。

 

 

参考文献

佐々木倫子「君の名は」、『家族の肖像』、白泉社(花とゆめCOMICS)、1985年。

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ため息としてのスピーチ・バルーン―漫画の「吹き出し」鑑賞案内 しだゆい

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ため息としてのスピーチ・バルーン ―漫画の「吹き出し」鑑賞案内

しだゆい

 この文章のタイトルは大瀧詠一の「スピーチ・バルーン」という曲のある一節をもとにしている。スピーチ・バルーンとはいわゆる「吹き出し」のこと、吹き出しとはご存知の通り、漫画において人物などの発話や心中の思いを囲む「枠」を指す。それはたいてい風船(バルーン)のような楕円形をしているが、声を荒げているさまを表わすときにはその風船が弾けたようなかたちになったり、あるいは電話口から伝わる声やロボットなどの機械的な発話を囲む際には角ばったものが使われたりと、単に絵と言葉をわける境界として以上のさまざまな役割を担っている。もっとも、その具体的な機能についてはすでに漫画表現論による研究の蓄積があるだろうから、ここで詳しく論じることはしない。むしろ明確な意味とか機能には必ずしもかかわらない、吹き出しの美的な個性のようなものをディレッタントに味わってみようというのが私たちの目論見だ。

 吹き出しの醸す味わいにはじめて気づくことになったきっかけは阿部共実のそれであった。たとえば最新作『月曜日の友達』第1集冒頭、ページ一面を抜く大ゴマの、小さく船影を配して凪いだ湾を遠景に鳥瞰される市街の上空、一つの吹き出しがまさしくバルーンのように浮かんでいる。いささかいびつな楕円形をして、底のあたりには短いしっぽのような鋭角の突起がみられるが、これはたいていの吹き出しにみられる構造で、先端の向きによって話者を指し示す機能をもつことは誰もが知るところだ。ところがこのコマには人物がいないので、楕円に囲まれた「おはよう。」の文字が誰のものかはまだわからない。たっぷりと風をはらんだ吹き出しのなか、控えめな級数で組まれた持ち主不明の挨拶が、余白を持て余して所在なさげに佇んでいる。

 ページをめくるとカメラは急降下、中庭側から中学校の校舎をやや俯瞰ぎみに眺める一コマめから、さらに高度を落とし窓越しの教室を正対する角度で切り取る二コマめへ、ページを上下に分割するふたつのコマに今度は五つの吹き出しが、やはり風船のように滞空する。「中学校って朝早くてしんどい。」「もう桜は散っちゃったね」「今日体験部活動いこうよ。」……ここで私たちは、あの市街地上空を漂っていた「おはよう。」が入学したての中学生たちのものだったことを知るのだが、決して無機的ではないが均質さには十分配慮された背景の微細な描線に比して、吹き出しをかたどるペンはあくまでぎこちない。筆圧は一定せず継ぎ目もあきらかであり、楕円をめざすようでいて必ずどこかが角ばっているそれは、ちょうど全ての角をいっぺんに、しかしそれぞれ均一でない頻度で使われた消しゴムのシルエットにも似ている。

 この「角を失った消しゴム」というものにはどこか独特な居住まいがある。嵌まるべき場所からこぼれ落ちてしまった「モノ」の羞恥と頑なさをかたちに込めて、字を消すという自らの機能をいっとき忘却したかのような顔で茫洋とそこにあるそれは、翻って持ち主の、ある繊細な不器用を指し示す痕跡となるのだ。何も考えず片側からひたすら削ってゆけるほどに鷹揚でも、かといって八つの角のどこかは常に角のまま残しておけるほど器用でもなく、そのたびごとに取るものも取りあえない焦りから世界との微かな齟齬を修正しようと試みては、かえってその溝を広げてしまう……だが、それこそまさに阿部共実の描く多くの生のありようではなかっただろうか。

 だから最初に私たちが大気を漂う「風船」に見立てたあの一連の吹き出しも、本当は消しゴムのようにただそこに「置かれて」いたにすぎないのだ。どんなに写実的な絵画であっても別次元のモノ、たとえば消しゴム一つそこに乗せてみるだけでたちまち平面へ退いてゆくのと同じ原理で、阿部共実のたどたどしい吹き出しはその背後の世界をいったん「描かれたもの」へと引き戻し、しかしそうすることで平面のうちに閉じ込められた者たちが本来もつはずの生の立体性をもう一度立ち上げるための媒介となるのである。二次元と三次元の境界であいまいに盛り上がる「モノ」としての吹き出しを通じて、私たちと彼/彼女らの生は、互いに感応しあうことを許される。

 一方、やはりもはや風船とはかけ離れながら、それでいて消しゴムのもつモノとしての硬直や厚みからも自由な、志村貴子の吹き出しは貼りつく生きものだ。そのつどの話者の息づかいや声色、その震えまでをも敏く感じ取っては自らのかたちに反映するので、それらは盛んにくびれ、波打ち、思いもよらぬ部分が欠けている。もっとも「くびれ」にかんしては他の漫画家においても、息の長い発話を表示するため複数の吹き出しがつなぎ合わされる際などに広くみられるものだが、基本的には楕円を合成した雪だるまのような単調なかたちがほとんどで、志村貴子ほど生きのいいくびれ方をするものはあまりない。粘性をもった液体の雫がふたつ、ゆっくりと平面を広がり互いに接近してついには溶けあったときのように(ときには溶け合いきれず、小さな空隙が雫どうしをわずかに隔てていることもあるのだが)滑らかなつなぎめ。また話者を指し示す突起のかたちもさまざまで、鋭い角のようなものや、芽のようにわずかな丸みを帯びたもの、虫刺されの腫れのようになだらかなものもあれば、先端が結ばれずそこからしゅうっと息が漏れ出ているものもある。

 だがこのように吹き出しがまるで生きてみえたとしても、その代謝の熱が作品を内側から湿らせるようなことは決してないのだ。その意味で、これらは生きものというよりその影――白い影にすぎないのかもしれない。かつては一つの塊であった鉱物が波の浸食作用によってえぐられ穿たれ、やがてくびれや欠損や突起が有機的なリズムで組み合わさった生きもののようにみえてくることがあるけれど、それと同じように――志村貴子的な世界とは水や大気の代わりに「白」そのものを媒質として満たした空間なのだから――その白の分子が偏って凝集した結晶がいわば偶然に、生命の似姿となったのだとも考えられるだろう。いずれにせよ志村貴子において吹き出しは単に台詞を示すためだけの枠なのではない。それらは作品が担う抒情の有機的な細やかさと無機的な乾燥を同時に、またきわめて象徴的なしかたで表現する一種の文様として刻まれてもいるのだ。

 こうして見てゆくと、漫画家が一〇〇人いれば一〇〇通りの画風が存在するのは当然として、見落とされがちだが実は吹き出しにも人それぞれ「吹き出し方」というものがあるということに気づかされる。他にも、たとえば古谷実の場合、その安定感のあるペンタッチ――とりわけ人間の顔がもつ形態的な面白さを読む者に再発見させる確信にみちた描線とは裏腹に、吹き出しの輪郭はつねに戸惑ったような揺らぎを一様に湛えている。それに対して、絵柄と同様の端正なペンタッチで道満晴明が描く吹き出しは、シンプルな楕円を基本として優美な曲線のみで構成され、発言の主を指し示す例の突起すら近年はほとんどみられない(鬼頭莫宏においては同じ傾向がさらに徹底され、いわゆる「突起」と呼べるものは一切なく、どうしても話者を明示する必要がある場合は引用符[″]にも似た二本の短い毛ようなものを書き添えることで突起に代えている)。最近の作家に限ってみても、とりわけ毛筆を用いたpanpanyaの吹き出しなどはごつごつと武骨なシルエットに掠れがちな墨汁も躍動感を醸していて、平衡感覚を絶妙に欠いた背後の作品世界よりもはるかに堅固な実在感を帯びているのが面白い。また今年随一の傑作『映像研には手を出すな!』において大童澄瞳が生み出した「パースのかかった吹き出し」という表現は、これまで必ずしも吹き出しに目を凝らしてはこなかった人々にも新鮮な驚きを与えるものだった。

 日常に交わされる言葉には見ることも、またはっきりとは聞くことすらできないあまりに多くのものが纏いついていて、それらが往々にして私たちを疲れさせる。だからたまには言葉や文脈などはあえて置き去りにして、たしかにこの目の前に浮かぶため息のような吹き出しの白をただ虚心に愛でてみるというのもいいのではないかと思う。いささか偏ったセレクトであったことは認めざるをえないけれど、とにかく吹き出しの魅力をその一端でもあなたに伝えることができていれば嬉しい。