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ネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」

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ぷらぷら読書会記録  2017年4月 ネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」(小竹由美子訳)


今回の課題本はネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」。みんな大好き新潮クレストブックです。

参加者満員。プレゼン担当は、ジョブホッパー竹田純氏と深沢レナ。

ぷらぷら外国文学枠2人組よりお届けします。

 

1  ネイサン・イングランダーについてあれこれ

イングランダーは1970年、アメリカ・ニューヨーク生まれのユダヤ人系米国人で、敬虔なユダヤ教徒の両親のもと、ユダヤ教正統派の町で育ちます。ユダヤ教の学校で高校まで教育を受けますが、アメリカに暮らしながら、あくまで自分をユダヤ人と感じて生きてきて、ホロコーストは常に身近な主題だったといいます。

その後、ニューヨーク州立大学に入学。大学3年生のときにイスラエルに行き、信仰を捨てて本格的な執筆活動を始めます。アイオワ大学のライターズ・ワークショップでマリリン・ロビンソンに指導を受けたとのこと。1999年には初の短編集を出版(未邦訳)、2007年には初の長編を刊行(これも未邦訳)。2012年に『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』でフランク・オコナー国際短編賞を受賞。現在ブルックリン在住で、ニューヨーク大学で創作を教えているとのことです。

『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』は、明らかにレイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』にちなんだタイトルとなっているのですが、夫婦二組という登場人物や、会話文の多用といった表面的な類似のほか、物語中なにか大きな事件が生じるわけではないのに、なにげない会話や態度だけで、それまでの関係性が修復不可能なほど崩れてしまう恐ろしさ、などがカーヴァー作品と繋がっているかと思われます。

といっても、わかりやすくオマージュになってはおらず、イングランダー自身は

カーヴーの短編は十五年前に読んだきりだった。そして自分の短編として書き上がったとき、元のカーヴァーの短編は全部バラバラになっていた(Cultural Critic Interview)

と語っていて、強い繋がりなどは意図していないようです。

イングランダーが仲良くしている作家には、エトガル・ケレット、ジョナサン・サフラン・フォアなどがいます。フォアが表紙に推薦文書いてますね。大学の時にイスラエルに行くというのも、自分のルーツを問題に取り上げるのも、なんとなくフォアと似ているかも。

 

 

2 閉ざされた空間と、次々と現れる隠されたものたち

 

あらすじ

フロリダに住む主人公とデビーはユダヤ人夫婦。そこにデビーのユダヤ教学校時代のローレンと、夫のマークが来訪する。ローレンとマークはイスラエルに移住した正統派ユダヤ教徒だが、主人公とデビーはさほど宗教的ではない。対照的な二組の夫婦のぎこちない会話が始まる。

マークは宗教なしに家族は持続するのか、と問うが、主人公はいやな気持ちになる。デビーとローレンが昔の思い出をきっかけに思い立ち、四人全員でマリファナを吸う。そこに大雨が降ってくる。マークは涙を流す。彼が今住んでいるイスラエスでは雨はまず降らない。四人は手をつないだまま庭で雨にうたれる。

部屋に戻った彼らは「アンネ・フランクゲーム」を始める。もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるかを予測する遊びだ。—––連れ合いはユダヤ人である自分を通報するだろうか? 主人公とデビーは互いに大丈夫だと即答する。だが、ローレンは一瞬ためらってしまう。マークは私を突き出すかもしれない。そう思っていたことに自分で気づいてしまうのだ。その気持ちは、周囲の全員に伝わっていく。誰も何も言わぬまま、四人は食料貯蔵室でじっと向かい合う。

 

 

登場人物がちょっとややこしいのはイングランダーの特徴のようで、冒頭から固有名でいきなりはじまるので若干こんがらがりやすいです。簡単にまとめると、

  1. デビー(デブ):僕の妻
  2. トレヴァー(トレヴ):僕とデビーの息子
  3. ローレン(ショーシャナ):デビーの旧友
  4. マーク(イェルチャム):ショーシャナの夫

呼称が複数あり、語り手の「僕」が度々言い換えるので、それもこんがらがる一因となっています。

ホロコーストを背景に扱っているのでタイトルだけみると一見シリアスな印象を抱きますが、読んでみると語り手の「僕」は口語的で、読者への呼びかけを行ったりして、読みやすく、コミカルともいえる。

「僕」は、真面目なマークにいきなりヘビーな話をされてやや引きぎみ。好き嫌いのわかりやすい語り手です。そしてそのマークへの距離感を隠そうともせず、マークに対してはかたくなに「マーク」と呼び(一回だけイェルチャムと呼ぶ)、割と好意的に思えるようになったローレンのことは「ショーシャナ」と呼び改めるようになります。

この複数の名前についてですが、カギカッコ内だけでなく、地の文で変化するというのはめずらしいとの意見もあがりました。たしかにあんまりみないかも。

この物語では、4人のメンバーの立ち位置がかわったり、天候が変化し、外に出たり、また戻ってきたり、と、短い短編ながら場所の移動が多く描かれています。

それは心情の変化もおなじで、「僕」は周りの3人に対し、不安感を抱いたり、親密になったり、嫌いになったり、好きになったりと感情がこまめに変化します。妻のチャラい過去を知ってしまってめちゃめちゃうろたえたりしてかわいいんですが、そういった細かな変化を、呼称の使い分けによって表しているのかもしれません。

物理的な移動のきっかけになる小道具がマリファナですが、それが出てくるのは息子トレヴァーが洗濯物の中に隠したミントタブレットとなっていて、そのことを知りつつも「僕」に話さなかったデブに、「僕」は不安感を抱きます。

思えば、この小説は「閉ざされた空間の内側から、隠されたものたちが次々と立ち現れてくる物語」とも考えられます。タブレットの箱の中から現れる息子の秘密、デヴの過去、地下の食料貯蔵室でのゲーム、はその典型ですが、ショーシャナとマークの外見にもわかりやすくあらわれている。

ショーシャナは巨大なマリリン・モンロー風ブロンドかつらをかぶっていて、夫のマークは黒服を着て、大きな黒い帽子をかぶり、毛深いひげにおおわれ、露出しているのはわずかな部分だけ、と描写されています。重装備なマークは、規律・儀式でかためている外面と重なっているかと思われます。

途中でマークは帽子をとり、ショーシャナはかつらをとる。それと、アンネ・フランクゲームによって二人の関係性のもろさが明らかになっていくという主軸とが、構造的にパラレルになっているようです。

 

 

3 アンネ・フランクゲーム、ぜひカップルでやってみてね

タイトルにもなっている「アンネ・フランクゲーム」なのですが、これについては、ネイサン自身が妹と実際にやっていたことを語っています。

二十年前のことです。ちょうど僕が二十歳くらいの頃ですね。妹が誰かについてこう言ったのを覚えています。「彼は私たちを匿ってくれるけど、彼女は通報するでしょうね」。その言葉について二十年間考えてきました。彼女の言っていることは正しいなって、そのとき感覚的にわかったからです。こうした感覚がこの作品の終わりにも出てきます。一瞬で世界が変わってしまったら、僕を救うために本当に命をかけてくれるのは誰だかわかる。そして誰が通報するかもわかってるってね。(The Beer Barrel Interview)

 

もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるか?

その問いはだんだん深まり、やがて、自分たち夫婦間ではどうだろうか? という問いになっていきます。

緊張感の流れる中、「僕」は匿ってくれるだというか、という問いに、デブは「もちろん、この人はそうしてくれるわ」と答える。一方、あなたたちもやってみて、といわれたマークは「そんなことをしてなんの意味があるんだ?」と嫌がりながらも、しぶしぶやりはじめる。しかし、これが悲惨な結末を生むことになります。

 「で、僕は君を匿うかな?」彼は本気で訊ねる。そしてその日初めて、僕のデブがやるように手を伸ばすと、妻の手に自分の手を重ねる。「僕はそうするかな、ショーシ?」

 すると、ショーシャナが子供たちのことを考えているのがわかる、シナリオにはなかったのだが。彼女が想像することの一部を変えたのが見て取れる。それから一呼吸おいて、うん、と答えるが、笑ってはいない。うん、と彼女は答えるのだが、それは彼には僕たちに聞こえるのと同じように聞こえるらしく、彼は今や何度も何度も訊ねる。だけど僕はそうするよね? 君を匿うよね? たとえ生きるか死ぬかでも—––君は助かって、そうすることで僕だけが殺されても? 僕はそうするよね?

 ショーシャナは手を引っ込める。

 彼女はそれを口にしない。彼も口にしない。そして僕たち四人の誰も、口にできないことを言うつもりはない—––この妻は夫が自分を匿ってはくれないと思っているということを。どうすればいい? これからどういうことになるのだろう? だから僕たちはそんなふうにして突っ立っている、四人で、あの食料貯蔵室で抜き差しならなくなって。ドアを開けて、僕たちが閉じ込めたものを表に出すのが怖くて。

 

ショーシャナは、おそらくマークが匿ってくれないだろうということに気がついちゃいました。わあ、大変。さあ、別れるんでしょうかこの夫婦。その答えは出ないまま、小説は終わります。

なぜそこで、匿わないであろう人物は4人のなかでマークだったのか、という疑問については、都甲幸治さんが以下のように述べています。

 

アンネ・フランクのゲームはマークへの痛烈な批判になっている。本当の危機のとき、宗教や伝統さえも役に立たない。妻は、夫を腹の底から信じることができてはいないし、夫婦の間に開いた深淵を埋めるための出来合いの方法なんて存在しない。 (『生き延びるための世界文学』)

 

マークの原理主義的なものの考え方は、立場がかわってしまえば、危険なものになりうる。ここでは、あくまで宗教は表面的なもので、剥ぎ取られるかつらのようなものなんですね。そういう意味で、この話はユダヤ人だとかアメリカ人だとか特定の人種や宗教という服をかっぱらい、裸になった夫婦や友人といった普遍的なものにまで掘り下げています。

レイモンド・カーヴァーの描く夫婦や家族というのも、労働者階級という設定を外しても、普遍的な人間同士の関係にまで踏み込むものでした。その点において、イングランダーとカーヴァーの作品は通底しているのかもしれません。

イングランダーは、自分の描くものについてこのように述べています。

 

私が書くのは、寂しさやうれしさ、恋しく思う気持ち、孤独、希望、何かを失うこと……それだけです。そして感情を描写する時には、私の悲しさを書けばあなたもその悲しさが分かる、と考える。普遍性は私にはコントロールできるもので。なすべきは記憶の集積である現実を、ストーリーとして語ることだけです(産経新聞)

 

イングランダーの作品には、固有名詞が多く、Twitter、facebookと言った現代の言葉が入ってくるのも特徴なのですが、そういったいわば期間・場所の限定的な言葉の奥に、ものすごく普遍的な物語が見えてくるようです。

身近なものこそが不気味なものとなる——「見慣れた」ものや「親しんだ」ものこそが「不気味」となりうるのだ、というフロイトの概念をこの小説に当てはめてくれた子もいました。実は自分はぜんぜん家族のことを知らないのではないか、という不安は、家族だからこその恐怖ですよね。

また、その「不気味なもの」が立ち上がるきっかけとなるのが、二組の夫婦どっちにおいても「子供」の存在である、という鋭い指摘も。本来つなげる存在である子供が、この小説においては、切断する役割を果たしているようです。

 

 

4 だって、彼らが僕たちを憎むから

この短編集には8つの短編がおさめられていますが、二人の義姉妹からはじまる長い歴史を年代順に描いた「姉妹の丘」、ピープショーをめぐり現実と妄想がまざりあう「覗き見ショー」、イングランダー自身を思わせる語り手が彼女との関係の破綻と自分の家族について箇条書きで語った「母方の親族について僕が知っているすべてのこと」など、イングランダーはいろいろなスタイルで大抵ストレートに問題を打ち出してきます。

なかでも、「キャンプ・サンダウン」は読んだ後いたたまれなくなりました。

主人公は高齢者向けキャンプの管理をする中年の責任者。やや認知症ぎみの老人たちに日々振り回されています。新しくやってきたメンバーの一人がナチスの収容所の衛兵だと思い込んで被害妄想になっていくユダヤ人の老人たち。すれ違いざまにわざと「ハイル」と挨拶する、といった嫌がらせをしはじめます。最初は、注意してなんとかやめさせようとしていた主人公ですが、老人たちはエスカレートし、主人公が夜のプールにあわてて駆け出していったときにはもう手遅れになっている。主人公は呆然とたちつくし、8人の老人たちと並んで、歩いて行く亀を見つめる。

悲惨ながらも、イングランダーの作品は、終わり方に余韻があって印象的です。

ユダヤ人と反ユダヤ主義者の報復の問題を描いた「僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか」では、反ユダヤ主義者にいかに反撃するかと、少年たちが試行錯誤する様子が描かれます。若く軽い語り口をつかっているので、青春小説のような爽やかさがある一ぺん。最終的に報復をはたすのですが、実際に相手を傷つけた瞬間、どうしたらよいのかわからなくなってしまった少年たちの姿が描かれています。

 

 彼を見つめながら、自分は常に、打ち砕くよりは打ち砕かれるほうがましだと感じるだろう——僕の弱点だ—––と僕は悟った。そしてまた、僕たちを貫く低いざわめきは単なる神経過敏で、あたかも復讐には音が組み込まれてでもいるかのように、想像上の反響に敏感になっているだけなのだということもわかっていた。

 そのとき僕たちが実際に共有していた気持ちは単純だった。あの日僕たちといっしょに立っていた誰もが同じことを言うだろう。反ユダヤ主義者を足元に見ながら、僕たちは皆当惑に襲われた。僕たちは押しつぶされた少年を見つめてそこに立っていた。そしていつ駆け出せばいいのか、誰にもわからなかったのだ。

 

ぷらぷらで唯一、世界一周放浪経験のあるすみえちゃんは、以前、アラブの人に「どうしてユダヤ人を憎むのか?」と聞いたところ、その答えは、"Because they hate us. "だったといいます。そりゃそうだよね。

この短編集の最後に収められている、「若い寡婦たちには果物をただで」のお父さんのセリフがしみました。

 

「だけどなあ、息子よ、誰が死ぬべきか決めるだなんて、俺たちはいったい何様だよ?」

 

 

(文責 深沢レナ)

読書会

ぷらぷら読書会記録 伊藤重夫『踊るミシン』

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ぷらぷら読書会記録  2017年5月 ①伊藤重夫『踊るミシン』

1 わかんない×わかんない×わかんない=でも面白い

発表者は漫画研究者の猫もどき、猫石くん。ということで課題本は漫画です。伊藤重夫『踊るミシン』。

わたしには聞いたことのない作家だったんですが、233頁もあるし、せっかくなので買おうと思ったら絶版なんですね。『踊るミシン』を復刊したい!というクラウドファンディングも立ち上がってました。がんばれ。

と、いうわけでみんなで読んでいったのですが、とにかく多かった感想は、1「わからない」、2「難しい」、3「でも面白い」。

あらすじにまとめるにはなかなか苦しい作品ですが、一応基本情報をまとめると、

 

舞台は西神戸。街のすぐ近くには海がある。

主人公の浪人生・田村は家出をして友達の長井と一緒に下宿をし、バンド活動をはじめる。高校の時から付き合いのある麗花がバンドのマネージャーになったりして、なんだかバンドは盛り上がる。

田村はパスタを茹でたり、海水浴に行ったり、麗花とセックスしたり、入院している大家さんに会いに行ったりする。

麗花は風呂場で踊ったり、海の堤防で踊ったり、田村とセックスをしたり、腕を切ったりする。

背後では鳥の頭をした鳥男が空中浮遊してるし、いきなり押し入れの中にブラックホールが出現するけど、田村の日々はのんびり平和。

バンドの演奏が無事成功したあと、田村はバンドをやめ、大家は死に、下宿は取り壊され、家に帰ることになる。THE END。

 

そんな話です。

一見、普通の地味な少年×若干メンヘラ少女による青春ストーリーにも思えるんですが、実際に読んでいくと、時間軸はバラバラだし、登場人物の会話は噛み合ってないし、解決されない話は多数あるし、単純にストーリーを追っていくのも大変です。ってかキャラクターがみんな似すぎだろ。見分けつかない。

 

だいたい鳥男やブラックホールってなんなの? という、意味のわからない挿話もあります。

冒頭、少年の前にいきなりあらわれる鳥男ですが、他の人には見えなかったり、写真にはうつらなかったり、鳥男が実際にいるのかいないのか、夢なのか現実なのかも明らかにされません。囚人服のような縞模様のパジャマを着ており、何かの象徴のように思えるけれど、出現するタイミングに一貫性がない。一瞬、踊る麗花の影が鳥になったりするのと関係があるのかどうかもわからない。

↑鳥男(上)と、踊る麗花の影(下)

また、押入れに突如出現したブラックホールは「THE END」と名付けられ、しかも、そのあとは全く話にでてこない。まさかの捨てエピソード。

↑これがTHE END

最初、作品のタイトル横には、思わせぶりな「自殺のための5教程」という言葉があります。なにやら示唆的だな、とこちらは身構えて読み、実際作品中でもやたらと人が死ぬんですが、でも、そのつながりがよくわからない。自殺だったのかどうかもわからないし、彼らの死が関連しているのかも特に触れられることはない。さまざまな出来事の相互関係がはっきりせず、ひとつひとつの話が断絶している。

そもそもタイトルの「ミシン」も全然でてきません。いったいなにがミシンだったのか? とにかく語られず、回収しづらいのです。

あとがきで村上知彦はこう言います。

伊藤重夫はいつも唐突に語り始める。この「踊るミシン」はいくつもの断片的なシーンが、時間軸をジャンプして、自在に繋ぎ合わされて構成されている。そして、それらのいくつものシーンで登場人物たちは前後の脈略など意に介せず、あまりに唐突にその場に必要な言葉のみを、ストレートに語りはじめるため、読者ははじめのうちしばしば混乱に陥ることとなる。そして、その言葉の意味を読者が充分つかみきれずにいるうちに、場面はまた唐突に、ジャンプしてしまっているのだ。あるエピソードでは、何の説明もないまま結果だけが示され、あるエピソードにはいつまで待ってもその後どうなったかという結末がついに語られない。(「陽のあたる場所『踊るミシン』を読む」)

その「何の説明もないまま」示されるのが、長井と麗花の死という結果なんでしょう。

 

 

2 伊藤重夫+キザ+センチメント=村上春樹

「村上春樹作品と似ているけど似ていない」という指摘が読書会中かなり出ました。

あとがきでも「中国行きのスロウボート」に言及されていますが、でも、春樹作品よりもっと脈略がなく、わかりにくい。

村上春樹の初期作品では、あえて軽い事柄と重い事柄を並行して語ったり、人の死という重いものを重く描かないような工夫がなされてました。そういう「重いものを軽く描く」姿勢や、安西水丸や佐々木マキを思わせるようなポップな絵柄や文体、神戸という舞台設定は類似しているのですが、でも春樹のキザでウェットな感じがない。

というのも、春樹の初期作品では「黙説法」が用いられ、中心にある重要なことを語らない語りになっていて、一見、エピソードごとに断絶があるようにみえるのだけど、実はエピソードはつながっていて、けっこうわかりやすく集約できるし、読み手はセンチメンタルに感じられます。一方、『踊るミシン』の場合、思わせぶりでなく、「黙説法」という以前に話が断絶されまくっている。中心が隠されているというより、ほんとうに中心がなく、話が拡散している印象を受けます。

最後のシーンで、猫に向かって田村がいう言葉、

「猫がセンチメンタルになるなよ」

「次の場所探せよ」

この一言に違いが表れているかと。

ついでに猫石くんが持ってきてくれた資料を引用すると、

「『踊るミシン』には、死を巡ってのテーマとさらに自殺が隠ゆとして横たわっているが、描かれた人物たちが表面的には極めて明るく、重苦しさを全く感じさせない。スッと読めば、ごくありふれた"青春叙情詩"なのだ。しかし、そぐだけ削ぎ落とし、選び抜いたコマで構成された伊藤さんの固有の描法に気づけば、描かれなかったコマとコマの間にパックリと虚無の空間が口を開けていることがわかる。その裂け目は、しっかりと描き込まれた垂水という街と海の明るい風景が一見覆い隠しているようでもある。」

糸野清明「日本文化の最前線13・劇画ニュー・ロマン」 (神戸新聞1987年1月10日)

というのがありました。

確かに死のにおいはずっとあるのですが、 どこか、あっけらかんとした明るさがあります。

それは、かわいい絵柄というのもあるし、少女漫画的な浮遊感とも関わってくるのかもしれないです。

急に地の文で独白や回想がはじまったり、「親父が来てたよ」という長井の言葉に対して田村がいきなり凧揚げの話をはじめる。その突拍子のなさから大島弓子作品との類似も挙げられたりしたのですが、少女漫画というのはなによりも、独自のコマ構成をつかうところに特徴があるのだそうです。

夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』の11章「少女マンガのコマ構成」には、

70年代以降の少女漫画によって開発され、部分的に他のジャンルの漫画にも使われるようになった独特のコマ構成、たとえばコマの余白=間白を強調したり、余白そのものをコマにしたり、コマを重ねたり包み込んだり、といったコマの基本原理ではとらえきれない描き方は、いずれもとても緩やかで軽い印象を与える。ほとんど時間が停止したような浮遊感を生み、読者の心理を誘導する機能が解除され、軽い伸びやかな解放感を感じさせることになる。

ということが書かれています。

この作品でも、謎のコマがちょくちょく出てくるのですが、いきなり挟み込まれる麗花が傘がを飛ばすコマは、時間が無にされているんだそう。吹き出しにセリフもないし。

 

 

 

3 遊びが多いよね

唐突に描かれるコマであったり、エピソードであったり、ほかにもとにかく、作者の遊び心がいたるところで感じられます。

たとえば、本来、黒い影というのは夜か昼か、過去か未来か、といった指標となるらしいのですが、そういうルールに関係なく、影がいきなり反転したりする。こういった「反転」はしょっちゅう描かれていて、麗花が浴室で手首を切るシーンでは、影が本体で、本体が影であるかのように動きます。また、田村と麗花がセックスをするとき、電気を消したにもかかわらず、背景の色がカラフルになっていたりするし、肌の色が突然かわったりもする。

 

それと、さっきセリフのない吹き出しがありましたが、ほかにも、誰もいないところに吹き出しがあったりもするし、歌とかセリフとかがときどき描き文字にされてカワイイ。イマジナリーラインを平気で超えたり、位置がめちゃくちゃになったりもする。

また、鳥男という存在は、つげ義春の『無能の人』からの、ゴジラの人形やうしろにいるゴリラは林静一『赤色エレジー』からの引用だそうです。他にも引用で遊んでいるところがあるのかもしれない。

なんだか、浮遊感のあるフワフワしたマンガではあるのですが、背景のビル、建物、看板といったものはしっかり描かれているのも特徴的でした。しかも、田村たちが演奏するライブバーの「WETHER REPORT」という看板は、須磨に実在していたらしいです。

それと、神戸で記者として働いていた経験のあるジョブホッパー・竹田純さんによれば、村上春樹の出身地の芦屋といった東側と、明石市や姫路よりの西側は全然雰囲気が違うそうです。西側はよく事件の起こる陰惨な地区で、垂水区には、埋め立てが進みまくって団地マンションが建ちまくっていて、塩気のつよい風に当たり壁はハゲている。そういう「神戸漫画」として読めたとのこと。場所の存在感がありますね。

 

 

 

★ほかに挙がったいろんなコメント★

・THE ENDっていうのは、可視化された物語の終焉では?

・落下のイメージが多々ありますよね。「私をここから落っことさないでよ」という麗花のセリフ、手首を伝う血、飛び降り自殺の噂、ベッドからの落下、落ちるぬいぐるみ、花火、階段などなどなど。

・エドワード・ヤン『クーリンチェ 少年殺人事件』と似ているんじゃないですか?

・コマというのは1コマから成り立つのではない! 全体があるからこそ成り立つんです!
・春樹にも『ダンス・ダンス・ダンス』や『神の子どもたちはみな踊る』だとか「踊る」ということが描かれているけど、この時代における「踊る」ことの意味合いってなんなんだろう?

・大量の窓がこわい。

 

 

***

 

田村が麗花と彼女の家に行き、部屋の背景が描かれるとき、母親の顔を消した写真がちらと写ります。麗花はナイフを持ち歩いていたり、嘘ばっかりついたりするんだけど、ひたすらかわいい。精神的に危うい少女ってなんだか魅力を感じませんか?

わたしはとにかくここを描きたいがために『踊るミシン』という作品は描かれたんじゃないかと、この見開きの一コマをみてひたすらぐっときました。

 

 

 

(文責 深沢レナ)

読書会

ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』『遁走状態』

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ぷらぷら読書会記録 2017年7月 ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』&『遁走状態』

今回は『プラトンとプランクトン5号』より、ぷらぷら読書会記事の一部を公開します!

課題本はブライアン・エヴンソン『遁走状態』から「マダー・タング」、『ウインドアイ』から「もうひとつの耳」。ここでは、「もうひとつの耳」についてのぷらぷらお喋りを座談形式でお伝えします。

*参加者

R 深沢レナ

S 伊口すみえ

N なめこ

H 雛倉さりえ

T 竹田純

・・・他

 

1 ブライアン・エヴンソンという作家

R はい、今回はトラウマ小説教室第一回、ブライアン・エヴンソンです。『遁走状態』から「マダー・タング」、『ウインドアイ』から「もうひとつの耳」を読んできていただきました。

エヴンソンについて簡単に説明をしておきます。1966年アメリカ・アイオワ州生まれ。敬虔なモルモン教徒の家庭に育ち、モルモン教系の大学で職を得ていたけれど、1994年のデビュー作があまりにも暴力的な内容だという理由で破門され、妻も職も失ったそうです。離婚者。仲間です。初期の作品には暴力が顕著。なんてことをいうとすごい怖そうなイメージですが扉絵の写真はいい笑顔のひげのおじちゃん。インタビューでは、悲惨なこどもの話が多いけど実際自分のこども時代は楽しかったといってます。本当かどうかわからないけど。ゲームの製作やホラー映画の小説化もし、フランス文学翻訳者としても活躍しているそうです。

アメリカ文学の系譜でみると、現代アメリカ作家たちはファンタジー・SF・ホラーといったジャンルを隔てる壁を無化し、純文学を押し広げているらしくて、そのような流れを柴田さんは「ニュー・ニューゴシック」と名付けています(『MONKEY vol.3』柴田元幸「二十一世紀のアメリカ小説」より)。今日のゴシックは、巨像も真実も相対的で、両者のあいだを物語が「だらしなく横滑りしつづける」ことを特徴にしている。つまり、「決定不可能性」そのものが発見されたのだ、と。そしてその筆頭がエヴンソンである、と。

じゃあ、ちょっと早速作品を見ていきましょう。

 

2 「もうひとつの耳」 〜この耳、僕の耳じゃないよ

 

 イストヴァンはもうひとつの耳を戦時中最悪の日々に得た。ある瞬間、絶叫し突撃していると思ったら、次の瞬間には黴と血の臭いのする野戦病院で目覚め、軍医の疲れた顔を見上げていた。痛みを鈍らせる薬はすでに投与されていたが、それでもまだ何か、引っぱられるような感覚があって、それとともに、軍医が針と糸を上げ下げするのを片目の端から眺めた。何なんです? 僕はどこが悪いんです?と言おうとしたが、言葉が出たかどうか確信が持てなかった。いずれにせよ軍医は気づいたそぶりを見せなかったし、次の瞬間、彼はまた意識を失っていた。(「もうひとつの耳」冒頭部)

 

R これが冒頭。次はこんな感じに進みます。

 

「気分はどうかね?」軍医は訊いた。

「何があったんです?」イストヴァンは訊いた。今回は声が出た確信があったが、出てきたのはささやき声だけだった。

「地雷だね、たぶん」軍医が言った。「あるいは手榴弾か。君、相当ずたずたにされたよ」。トーン・アップだ、とイストヴァンの頭がすぐさま訂正した。「生きてるだけ運がいいよ」と軍医は言った。

「どのくらいひどいんです?」

 軍医は彼をじっと見据えた。「体半分、顔半分。一応まだ人間に見えるからそのことは心配しなくていい。左耳もちぎれたが、君を運び混んできた男が耳も見つけて一緒に持ち帰ってくれた。おかげでひとまず縫い戻せたよ」

「僕の耳?」イストヴァンは言った。手をのばし、そこで触れたものにハッと驚いた。

 軍医はうなずいた。

「でも僕、左耳なかったんですよ」イストヴァンはなおも側頭部を探りながら言った。「何ヶ月も前になくしたんです」

 

R 見知らぬ耳を縫い付けられてしまった男は、次第に自分にしか聞こえない耳の言葉を聞くようになる。そのうち男は現実がわからなくなり、耳と男の存在が逆転していく、という話です。

エヴンソンを最初読んだときわたしはシャレにならない怖さを感じたんですが、何が怖いかというと、まずは、敵の姿がよくわからないということ。たいていの怖い話って、怖い対象が自分の外部にあるか、または、自分の内部にあっても「影」のように相対立するものとして何かしら形をもっている気がする。でもエヴンソンだといったい何と戦っているのかが見えない。自分かもしれない。外在的な悪というより、内在的な症状というか。どうしてそうなったのかという理由も希薄で、背景の説明もない。「何か」といって保留したり、指示語を多用したり、「もうひとつの耳」においては、それが不定形な耳として表象されているんですよね。

S 耳についての描写が読んでいるうちにどんどん変化していくよね。はじめは「糸状のもの」っていって海の表現をつかっていたのが、「繊維」って神経と絡み合うイメージになって、それから「イソギンチャク」とか「蔓のように」という表現になって、それが突然「頭部がある種の刃を振りまわしているかのよう」ってなって、そのあと「巻貝」っていうふうにイメージが全体で統一されていない。

R エヴンソン作品においては「認識」という問題が常にあって、怖い出来事を叙述するだけでなく、かならず登場人物の思考が描かれているんだよね。だから問いかけや自問自答がすごく多い。彼らは大抵現実を正しく認識しようとして、でもできなくて葛藤していて、そのわからなさが読んでる側は気持ち悪い。だいたい主人公がまともかどうかもわからないし。他人との会話は基本噛み合ってないから、外部との関係から判断ができなくて、主人公の曖昧な内面しか頼るべきものがない。

H 耳との意思伝達の非対称性が気になりました。耳は一方的に話しかけてくるだけで、主人公から耳へは話しかけることができない。そもそも耳は聴くための器官であるはずなのに、「聞こえるかい?」という声は耳自体が発しているということのおかしさがある。もしくは誰かが発した声を「誰かの耳」が拾っているのかもしれないけれど。

「もうひとつの耳に聞こえる声は、医者たちが何をやるのか、何もしないうちから全部わかっているようだった」

「彼はその声に向けて何も言えないが、声は彼に何でも言えるのだ」

「だが、そうやって問うてはみたものの、やはり聞き入れ、従わずにはいられなかった」

というように、主人公は耳に逆らう事ができないのですね。

R 「主従関係」みたいな上下関係はエヴンソンあるあるですね。優劣関係のあるところって閉鎖的で外側からの視点が入りにくいのか、閉ざされた関係性のなかでどんどんおかしくなっていく人間がよく描かれます。だいたいにおいて主人公は劣勢で遅れをとっている。でもそれも、明確な「悪の帝王」みたいなのがいるんじゃなくて、敵である存在と自分との輪郭が曖昧なんですよね。たとえば、「もう一つの耳」だと最後に、「耳はいまや、異物であると同時に彼自身の一部であるように思えた」って書かれている。

この作品は全体的に明確な描写がされていなくて、背景に戦争という状況があるけれど、何と戦っているのか、どういう戦争をしているのかといった情報が皆無で舞台が不明。農家・住居・墓地・納骨堂とかが一応おかれているけれど、ゲーム的というか、あまり現実味のない場所が背景にあって、最終的に「塹壕の反対側の地帯は、驚いたことに、どこからどこまで彼がいた側の地帯と同一だった。」と描かれる。耳と自分が重なり合っていくという物語が、敵=自分という背景の構図とも重なり合っているんですね。

 

3 よくそんな気持ち悪い語り方できるな

R で、もちろん語られている内容も怖いんだけど、エヴンソンはその語り方で怖さを増長させている。というのも、なんか文章、変なんです。「何か」を使った曖昧な知覚だとか、「確信が持てなかった」「判断がつかなかった」「わからなかった」「かもしれない」というような否定形の多用は、結構他の作家でも使うし、それから、五感を刺激させる文章であるというのも常套手段な気がします。

「もうひとつの耳を通して、息をする音がだんだんゆっくりになり、ぶるっと軋み、カタカタ鳴って、やがて止まるのが聞こえた」

「もうひとつの耳はじわじわ神経系に入り込んできた」

とかいうように、オノマトペをつかいながら徐々に徐々に侵食されていく感じを出している。でもエヴンソンは、それだけじゃなくて、なんか、生理的に、気持ち悪い。たとえば、

「自分の顔の、水で薄めたバージョンが見えた。それは、その顔は、見覚えのないものに思えたし、耳は、新しい耳は、・・・」

とか

「イソギンチャク、と彼は思った。何らかの動物、見なれた生き物、そいつが・・・」

とか言い換えを用いたりする。端正な語りを壊し、語りが考え、知覚しながら進んでいくようなあやふやさがある。ちょっとこなれていない言葉が混ざっているのもかなり胃にきます。「水で薄めたバージョン」とか、ぎくしゃくしているし、あとときどきよくわからないタイミングで言葉が太字になっていたりして、そういうのは、なんか、ぞわぞわする。

N ここの三人称って、内田百閒みたいな一人称の語りよりも怖いよね。一人称の語りだと、語り手がはじめから視点が制限されているという前提を読者がもてるんだけど、三人称だと語り手がすべての情報を有しているはずなのに、読者に対しても情報を制限して小出しにしていることになって、読者が作中人物とおなじような目線に立たされる。

S 語り手の距離が近いところから遠ざかったりするのも気持ち悪かったなあ。あと結末がよくわからなかった。

 

 彼は長いこと中にとどまり、さらに長くとどまった。けれどとうとうよたよたと、息を切らして出てきた。

 あるいはそう見えた。というのも、出てきたものは彼のように見えたが彼ではなかったのであり、まったく別の何かだったのである。一人の男か、あるいは一人の男の優れた代用品。イストヴァンと同じような頭と顔付きだが、どうも何かが違う。耳があったところにはただの穴が、巻き貝の形もないただの穴があって血にまみれていた。

 一瞬ののち、かつて彼であった、わずかに残っていたものも闇の中に消えていき、それもいつかなくなった。

 

R ただのホラーの「オチ」とはちがって、何が起こったのか明瞭じゃないんだよね。

S「わずかに残っていたもの」って、なんなんでしょう。

N なんなんでしょう。

T なんなんでしょう。

・・・(『プラトンとプランクトン5号』に続く!)