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ネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」

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ぷらぷら読書会記録  2017年4月 ネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」(小竹由美子訳)


今回の課題本はネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」。みんな大好き新潮クレストブックです。

参加者満員。プレゼン担当は、ジョブホッパー竹田純氏と深沢レナ。

ぷらぷら外国文学枠2人組よりお届けします。

 

1  ネイサン・イングランダーについてあれこれ

イングランダーは1970年、アメリカ・ニューヨーク生まれのユダヤ人系米国人で、敬虔なユダヤ教徒の両親のもと、ユダヤ教正統派の町で育ちます。ユダヤ教の学校で高校まで教育を受けますが、アメリカに暮らしながら、あくまで自分をユダヤ人と感じて生きてきて、ホロコーストは常に身近な主題だったといいます。

その後、ニューヨーク州立大学に入学。大学3年生のときにイスラエルに行き、信仰を捨てて本格的な執筆活動を始めます。アイオワ大学のライターズ・ワークショップでマリリン・ロビンソンに指導を受けたとのこと。1999年には初の短編集を出版(未邦訳)、2007年には初の長編を刊行(これも未邦訳)。2012年に『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』でフランク・オコナー国際短編賞を受賞。現在ブルックリン在住で、ニューヨーク大学で創作を教えているとのことです。

『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』は、明らかにレイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』にちなんだタイトルとなっているのですが、夫婦二組という登場人物や、会話文の多用といった表面的な類似のほか、物語中なにか大きな事件が生じるわけではないのに、なにげない会話や態度だけで、それまでの関係性が修復不可能なほど崩れてしまう恐ろしさ、などがカーヴァー作品と繋がっているかと思われます。

といっても、わかりやすくオマージュになってはおらず、イングランダー自身は

カーヴーの短編は十五年前に読んだきりだった。そして自分の短編として書き上がったとき、元のカーヴァーの短編は全部バラバラになっていた(Cultural Critic Interview)

と語っていて、強い繋がりなどは意図していないようです。

イングランダーが仲良くしている作家には、エトガル・ケレット、ジョナサン・サフラン・フォアなどがいます。フォアが表紙に推薦文書いてますね。大学の時にイスラエルに行くというのも、自分のルーツを問題に取り上げるのも、なんとなくフォアと似ているかも。

 

 

2 閉ざされた空間と、次々と現れる隠されたものたち

 

あらすじ

フロリダに住む主人公とデビーはユダヤ人夫婦。そこにデビーのユダヤ教学校時代のローレンと、夫のマークが来訪する。ローレンとマークはイスラエルに移住した正統派ユダヤ教徒だが、主人公とデビーはさほど宗教的ではない。対照的な二組の夫婦のぎこちない会話が始まる。

マークは宗教なしに家族は持続するのか、と問うが、主人公はいやな気持ちになる。デビーとローレンが昔の思い出をきっかけに思い立ち、四人全員でマリファナを吸う。そこに大雨が降ってくる。マークは涙を流す。彼が今住んでいるイスラエスでは雨はまず降らない。四人は手をつないだまま庭で雨にうたれる。

部屋に戻った彼らは「アンネ・フランクゲーム」を始める。もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるかを予測する遊びだ。—––連れ合いはユダヤ人である自分を通報するだろうか? 主人公とデビーは互いに大丈夫だと即答する。だが、ローレンは一瞬ためらってしまう。マークは私を突き出すかもしれない。そう思っていたことに自分で気づいてしまうのだ。その気持ちは、周囲の全員に伝わっていく。誰も何も言わぬまま、四人は食料貯蔵室でじっと向かい合う。

 

 

登場人物がちょっとややこしいのはイングランダーの特徴のようで、冒頭から固有名でいきなりはじまるので若干こんがらがりやすいです。簡単にまとめると、

  1. デビー(デブ):僕の妻
  2. トレヴァー(トレヴ):僕とデビーの息子
  3. ローレン(ショーシャナ):デビーの旧友
  4. マーク(イェルチャム):ショーシャナの夫

呼称が複数あり、語り手の「僕」が度々言い換えるので、それもこんがらがる一因となっています。

ホロコーストを背景に扱っているのでタイトルだけみると一見シリアスな印象を抱きますが、読んでみると語り手の「僕」は口語的で、読者への呼びかけを行ったりして、読みやすく、コミカルともいえる。

「僕」は、真面目なマークにいきなりヘビーな話をされてやや引きぎみ。好き嫌いのわかりやすい語り手です。そしてそのマークへの距離感を隠そうともせず、マークに対してはかたくなに「マーク」と呼び(一回だけイェルチャムと呼ぶ)、割と好意的に思えるようになったローレンのことは「ショーシャナ」と呼び改めるようになります。

この複数の名前についてですが、カギカッコ内だけでなく、地の文で変化するというのはめずらしいとの意見もあがりました。たしかにあんまりみないかも。

この物語では、4人のメンバーの立ち位置がかわったり、天候が変化し、外に出たり、また戻ってきたり、と、短い短編ながら場所の移動が多く描かれています。

それは心情の変化もおなじで、「僕」は周りの3人に対し、不安感を抱いたり、親密になったり、嫌いになったり、好きになったりと感情がこまめに変化します。妻のチャラい過去を知ってしまってめちゃめちゃうろたえたりしてかわいいんですが、そういった細かな変化を、呼称の使い分けによって表しているのかもしれません。

物理的な移動のきっかけになる小道具がマリファナですが、それが出てくるのは息子トレヴァーが洗濯物の中に隠したミントタブレットとなっていて、そのことを知りつつも「僕」に話さなかったデブに、「僕」は不安感を抱きます。

思えば、この小説は「閉ざされた空間の内側から、隠されたものたちが次々と立ち現れてくる物語」とも考えられます。タブレットの箱の中から現れる息子の秘密、デヴの過去、地下の食料貯蔵室でのゲーム、はその典型ですが、ショーシャナとマークの外見にもわかりやすくあらわれている。

ショーシャナは巨大なマリリン・モンロー風ブロンドかつらをかぶっていて、夫のマークは黒服を着て、大きな黒い帽子をかぶり、毛深いひげにおおわれ、露出しているのはわずかな部分だけ、と描写されています。重装備なマークは、規律・儀式でかためている外面と重なっているかと思われます。

途中でマークは帽子をとり、ショーシャナはかつらをとる。それと、アンネ・フランクゲームによって二人の関係性のもろさが明らかになっていくという主軸とが、構造的にパラレルになっているようです。

 

 

3 アンネ・フランクゲーム、ぜひカップルでやってみてね

タイトルにもなっている「アンネ・フランクゲーム」なのですが、これについては、ネイサン自身が妹と実際にやっていたことを語っています。

二十年前のことです。ちょうど僕が二十歳くらいの頃ですね。妹が誰かについてこう言ったのを覚えています。「彼は私たちを匿ってくれるけど、彼女は通報するでしょうね」。その言葉について二十年間考えてきました。彼女の言っていることは正しいなって、そのとき感覚的にわかったからです。こうした感覚がこの作品の終わりにも出てきます。一瞬で世界が変わってしまったら、僕を救うために本当に命をかけてくれるのは誰だかわかる。そして誰が通報するかもわかってるってね。(The Beer Barrel Interview)

 

もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるか?

その問いはだんだん深まり、やがて、自分たち夫婦間ではどうだろうか? という問いになっていきます。

緊張感の流れる中、「僕」は匿ってくれるだというか、という問いに、デブは「もちろん、この人はそうしてくれるわ」と答える。一方、あなたたちもやってみて、といわれたマークは「そんなことをしてなんの意味があるんだ?」と嫌がりながらも、しぶしぶやりはじめる。しかし、これが悲惨な結末を生むことになります。

 「で、僕は君を匿うかな?」彼は本気で訊ねる。そしてその日初めて、僕のデブがやるように手を伸ばすと、妻の手に自分の手を重ねる。「僕はそうするかな、ショーシ?」

 すると、ショーシャナが子供たちのことを考えているのがわかる、シナリオにはなかったのだが。彼女が想像することの一部を変えたのが見て取れる。それから一呼吸おいて、うん、と答えるが、笑ってはいない。うん、と彼女は答えるのだが、それは彼には僕たちに聞こえるのと同じように聞こえるらしく、彼は今や何度も何度も訊ねる。だけど僕はそうするよね? 君を匿うよね? たとえ生きるか死ぬかでも—––君は助かって、そうすることで僕だけが殺されても? 僕はそうするよね?

 ショーシャナは手を引っ込める。

 彼女はそれを口にしない。彼も口にしない。そして僕たち四人の誰も、口にできないことを言うつもりはない—––この妻は夫が自分を匿ってはくれないと思っているということを。どうすればいい? これからどういうことになるのだろう? だから僕たちはそんなふうにして突っ立っている、四人で、あの食料貯蔵室で抜き差しならなくなって。ドアを開けて、僕たちが閉じ込めたものを表に出すのが怖くて。

 

ショーシャナは、おそらくマークが匿ってくれないだろうということに気がついちゃいました。わあ、大変。さあ、別れるんでしょうかこの夫婦。その答えは出ないまま、小説は終わります。

なぜそこで、匿わないであろう人物は4人のなかでマークだったのか、という疑問については、都甲幸治さんが以下のように述べています。

 

アンネ・フランクのゲームはマークへの痛烈な批判になっている。本当の危機のとき、宗教や伝統さえも役に立たない。妻は、夫を腹の底から信じることができてはいないし、夫婦の間に開いた深淵を埋めるための出来合いの方法なんて存在しない。 (『生き延びるための世界文学』)

 

マークの原理主義的なものの考え方は、立場がかわってしまえば、危険なものになりうる。ここでは、あくまで宗教は表面的なもので、剥ぎ取られるかつらのようなものなんですね。そういう意味で、この話はユダヤ人だとかアメリカ人だとか特定の人種や宗教という服をかっぱらい、裸になった夫婦や友人といった普遍的なものにまで掘り下げています。

レイモンド・カーヴァーの描く夫婦や家族というのも、労働者階級という設定を外しても、普遍的な人間同士の関係にまで踏み込むものでした。その点において、イングランダーとカーヴァーの作品は通底しているのかもしれません。

イングランダーは、自分の描くものについてこのように述べています。

 

私が書くのは、寂しさやうれしさ、恋しく思う気持ち、孤独、希望、何かを失うこと……それだけです。そして感情を描写する時には、私の悲しさを書けばあなたもその悲しさが分かる、と考える。普遍性は私にはコントロールできるもので。なすべきは記憶の集積である現実を、ストーリーとして語ることだけです(産経新聞)

 

イングランダーの作品には、固有名詞が多く、Twitter、facebookと言った現代の言葉が入ってくるのも特徴なのですが、そういったいわば期間・場所の限定的な言葉の奥に、ものすごく普遍的な物語が見えてくるようです。

身近なものこそが不気味なものとなる——「見慣れた」ものや「親しんだ」ものこそが「不気味」となりうるのだ、というフロイトの概念をこの小説に当てはめてくれた子もいました。実は自分はぜんぜん家族のことを知らないのではないか、という不安は、家族だからこその恐怖ですよね。

また、その「不気味なもの」が立ち上がるきっかけとなるのが、二組の夫婦どっちにおいても「子供」の存在である、という鋭い指摘も。本来つなげる存在である子供が、この小説においては、切断する役割を果たしているようです。

 

 

4 だって、彼らが僕たちを憎むから

この短編集には8つの短編がおさめられていますが、二人の義姉妹からはじまる長い歴史を年代順に描いた「姉妹の丘」、ピープショーをめぐり現実と妄想がまざりあう「覗き見ショー」、イングランダー自身を思わせる語り手が彼女との関係の破綻と自分の家族について箇条書きで語った「母方の親族について僕が知っているすべてのこと」など、イングランダーはいろいろなスタイルで大抵ストレートに問題を打ち出してきます。

なかでも、「キャンプ・サンダウン」は読んだ後いたたまれなくなりました。

主人公は高齢者向けキャンプの管理をする中年の責任者。やや認知症ぎみの老人たちに日々振り回されています。新しくやってきたメンバーの一人がナチスの収容所の衛兵だと思い込んで被害妄想になっていくユダヤ人の老人たち。すれ違いざまにわざと「ハイル」と挨拶する、といった嫌がらせをしはじめます。最初は、注意してなんとかやめさせようとしていた主人公ですが、老人たちはエスカレートし、主人公が夜のプールにあわてて駆け出していったときにはもう手遅れになっている。主人公は呆然とたちつくし、8人の老人たちと並んで、歩いて行く亀を見つめる。

悲惨ながらも、イングランダーの作品は、終わり方に余韻があって印象的です。

ユダヤ人と反ユダヤ主義者の報復の問題を描いた「僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか」では、反ユダヤ主義者にいかに反撃するかと、少年たちが試行錯誤する様子が描かれます。若く軽い語り口をつかっているので、青春小説のような爽やかさがある一ぺん。最終的に報復をはたすのですが、実際に相手を傷つけた瞬間、どうしたらよいのかわからなくなってしまった少年たちの姿が描かれています。

 

 彼を見つめながら、自分は常に、打ち砕くよりは打ち砕かれるほうがましだと感じるだろう——僕の弱点だ—––と僕は悟った。そしてまた、僕たちを貫く低いざわめきは単なる神経過敏で、あたかも復讐には音が組み込まれてでもいるかのように、想像上の反響に敏感になっているだけなのだということもわかっていた。

 そのとき僕たちが実際に共有していた気持ちは単純だった。あの日僕たちといっしょに立っていた誰もが同じことを言うだろう。反ユダヤ主義者を足元に見ながら、僕たちは皆当惑に襲われた。僕たちは押しつぶされた少年を見つめてそこに立っていた。そしていつ駆け出せばいいのか、誰にもわからなかったのだ。

 

ぷらぷらで唯一、世界一周放浪経験のあるすみえちゃんは、以前、アラブの人に「どうしてユダヤ人を憎むのか?」と聞いたところ、その答えは、"Because they hate us. "だったといいます。そりゃそうだよね。

この短編集の最後に収められている、「若い寡婦たちには果物をただで」のお父さんのセリフがしみました。

 

「だけどなあ、息子よ、誰が死ぬべきか決めるだなんて、俺たちはいったい何様だよ?」

 

 

(文責 深沢レナ)

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黒田硫黄「わたしのせんせい」

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ぷらぷら読書会記録 2017年6月 ①黒田硫黄「わたしのせんせい」


黒田硫黄のスピード感

発表者は漫画研究者で猫に似ている猫石くん、ということで、今回の課題本は漫画です、黒田硫黄「わたしのせんせい」(『黒船』Cue Comics)。

やめるやめる詐欺をなかなかやめない宮崎駿も激押しの黒田硫黄ですが、黒田硫黄は以前、ぷらぷらの小説技術ゼミで「あさがお」「西遊記を読む」(どちらも『大王』収録)を読みまして大好評。今回の「わたしのせんせい」は、女子高生と高校教師(せんせい)との恋愛話かと思いきや、だんだん冷めてきたっぽいせんせいが「俺は宇宙人なんだ」とかいいはじめ、何言ってんだ、バカか、と思ってナメてたらマジで宇宙人だった、という予想外の展開に裏切られつつ、でもなんだかんだいって面白かった、との声が高い短編作品でした。

登場人物がかなり多くて政治の話が絡んでくるのでややこしくなるのですが整頓すると、

  1. 鈴木加油:高校生。せんせいと付き合っている。
  2. イトー:加油と同じ学校に通っている高校生。鈴木家とイトー家は政敵。
  3. せんせい(野川):高校教師。のちに細胞を金属元素で置換される。宇宙へ。
  4. イトー(父):現職町長。ゴミ山放置で非難を浴び、降ろされそうになる。
  5. 鈴木(父):県庁職員。町長選を狙っている。
  6. 吉村:県会議員。

といったところになります。

メインは加油、イトー、せんせいの3人。

加油、という名前は文字どおり「給油する」という意味のほか、中国語では「がんばる・体当たりする・踏ん張る」といった意味もあるそうです。自転車を踏ん張ってこいでいるということのほか、実際に作品中で、ゴミ山に油をまいて燃やそうとすることからもこの名前が選ばれたのではないかと。

「花を摘んでて遅れました」

と言って花をせんせいに手渡し見上げる加油のアップから始まり、彼女が自転車で坂をのぼるシーンは手塚治虫の『新宝島』をホーフツとさせる。

しょっぱなからしょっちゅう時間が飛ぶし、加油とせんせいの関係といった説明を省いてぐんぐん話が進んでいきます。

この疾走感は、読者がページをめくることを念頭に入れて描かれていることから生じているそうな。人が増えると文字も増えてごちゃごちゃするのだけれども、吹き出しがコマからはみ出ているだとか、ページをめくることを急かすかのような描かれ方をしていたり、読者がページをめくる方向と進行方向を一致させたりして、作品のスピードを加速させているそうです。ふむふむ。

けれども、途中、せんせいが来歴を語るシーンで時間が減速します。(ここでせんせいがぶち抜きになっているのは見る人が見れば萩尾望都だとピンとくるそうで。)それまでの速い時間の流れが、宙に浮かされる視線とともに遮断され、主人公の混乱が読者にも伝わるんだそうです。ふむふむふむ。

 

 

止まらない上下関係

作品の中では「上下」というものが様々な形で現れます。

せんせいと生徒という関係にしろ、娘と父親という関係にしろ。そしてそれは、見下ろす/見上げる構図となって繰り返し表象され続けます。

「上から神様みたいに見てたいんでしょ」(p38)

「みんな見てたんだ上から」(p41)

「先生はそうやって」「上から見ていたいのね!」(p49)

これらはすべて加油のセリフですが、加油を見下ろすせんせいや父親にも上の存在が描かれています。町長となろうとする父には県長という存在があり、せんせいの上には(2つの目のようにみえる2つの丸い窓から見下ろす)宇宙人の存在がある。そして「町の上は県 県の上は国って操って」(p57)というイトーのセリフどおり、それらの上にはまだ上がいて、見下ろす/見上げる関係は限りなく続いていることが示唆されている。

それらのヒエラルキーの底辺に位置しているのが加油。加油の移動手段は自転車であり、それはせんせいや県長の使用する自動車、自動車を壊す宇宙船の図式の中でも最弱のものです。しょせん自転車。弱い弱い。

底辺にいる加油はそれでもなんとか抗おうとします。

「私はね! 先生と一緒にいたいのそんだけ」

「引きずりおろせないなら」「先生んとこいく」(p49-50)

加油は基本的に「のぼろうとする者」であり、冒頭では坂をのぼり、家の中では階段をのぼります。加えて、加油という名前や、感情の激しやすい性格、ゴミに油をかけて火をつける行動から加油には「火」の性質が与えられているんだろーかと思うのですが、火というものも上へのぼるものであり、加油の燃やしたゴミ山からは煙がたちのぼることからも、加油の「上へ!」性が示されている。

けれどもそんな簡単に上にいけるわけはない! 彼女は「私たちが自分で決めたことなんてなんにもな」(p45)と父に言いかけて追い出されます。その閉塞感は、家の扉や、学校の屋上の柵、加油の着ているボーダー柄の服などにも表されています。

そういった閉じ込める「柵」の表象と対になっているものが「道」の表象ではないか、と。

せんせいは、まだ若い加油に、進路や将来のことをたびたび口にし、未来のない自分とは違うのだと教え諭します。加油は反抗しますが、それは二人の使う乗り物からも明らか。自動車が壊された先生は、必然的に道を失い宇宙に帰るしかなくなりますが、自転車を交換し、さらには新しい自転車を手にいれる加油は、自分で道を進み続けることできる。

作品のラストシーンは、思い切り体重をかけながら自転車をこぐ加油の姿。冒頭、車で道を走っていくせんせいと、同じ構図の道で自転車をこいで走ってゆく加油。道を閉ざされたせんせいと、道が開かれている加油と読めるのか、それとも、加油もせんせいの反復に過ぎないのか。加油は空を見上げて、答えは開かれたまま物語は終わります。

曇天。

 


右ページ右上は俺がやるから空けておけ

また、自転車は単なる移動手段としての枠を超えているという意見もありました。自転車は加油の感情の表れとともにあるのではないか、と。たしかに、加油がせんせいから別れ話を告げられている時に、雨に打たれる自転車がさりげなく描写されています。

そういうさりげなく悲しいシーンもあるんですが、全然ウェットじゃないんですよね。と、いうのも決めゼリフを小さいコマにしたり、どうでもいいセリフで大きなコマを使ったりするからか、感傷的な絵にならない。ドライ。

加油が火をつける時にせんせいがいうのが「八百屋お七か おまえは!」って。大事な時に言うセリフかお前。っていうか宇宙人なのによくそんなの知ってんなお前。

あといくつか挙がった点。

加油は自転車をこぎながら歌をうたっているんですが、それは細野晴臣作詞作曲の「終りの季節」で、「窓から 招き入れると」というのは窓からみえるせんせい、「終りの季節」とは、加油とせんせいの関係のことにもなっているようです。

作品の中で、加油の表情がくるくると変わる、との指摘もでました。言われてみれば冒頭の加油は高校生にはみえない。超幼くみえる。けれども(おそらくカーセックスをした後)パンツを履いている加油は艶っぽくみえますね。

あと、細かいところだと、手を引っ張ったり、転んだり、と同じモチーフが反復されています。「汚いぞ」というイトーのセリフは、コマの位置まで同じ。右ページ右上は「イトー」の独壇場!

 


★黒田硫黄あるある★

・コマが詰まってる。字が多い。

・加油が足をくじくシーンなど、いきなりコマが縦になったりする。

・セリフ使いがおかしい。たとえば「俺はさ 居づらくなるよ かもなあ」とか。

・好きな人物が遠くに行ってしまう、という話は黒田硫黄作品に多いそうです。

・黒田硫黄の描く女の子ってほんとかわいいよね。

・前回やった伊藤重夫の「踊るミシン」の女の子もかわいかったよね。

・そういう漫画の女の子たちのかわいさというのは、彼女たちが「動こう」としているから、じゃない?

・ってかゴミの中に人っぽいのいない?

・ってかこれ、ウルトラマンじゃない?

・あーお腹減った。ジョナサンいこ。

・ジョナサンいこ。

などなど、雨の中、初参加の方も加え、とても充実した読書会となりました。ではでは。

(文責 深沢レナ)