プラトンたちのおことば

ぶんがくってなんなのか。それを考える上で役立ちそうなプラトンっぽい作家や芸術家の言葉を紹介していきます。

 

「愛」なんて言葉の中途半端な大きさの箱舟に乗ってどこへ行くのか
世界の言葉なんてたったここ数万年くらい
日本の言葉なんてたったの何千年続くかどうか
言葉が生まれる以前を考えろ
大昔は真っ暗だ
宇宙しかない
そこにあるのは
もっと無数の言葉の「本質」
言葉ほどわかりやすくまとめてない
言葉ほどひとくくりに断定しない
不思議な意味たち
無数の意味たちが 人間には見えない世界でうごめている
エレメント 顕微鏡で見えるウイルスよりも小さい
生きている浮遊物
ぐらぐらとうごめいている
意味の微生物
(中略)
言葉のない世界で
また人間の知らない意味が
うようよしている
まだ生まれていない未解決の言葉が
宇宙にうようよしている

宇宙の 根源的な 言葉が まだ
無数にあって
まだまだ 全然自由じゃない現代の言葉
今ある言葉だけを使って
人や自然や宇宙を理解するなんて
狂気の沙汰だ
お笑いごとだ
宇宙に漂う
無数の言葉を発見すべきなんだろう
それが詩人の仕事

——園子温『受け入れない』

 

ショパンの曲は、奇跡のように自然に湧きおこった。みずから求めるのではなく、なんの前触れもなく、発見するのだ。それはピアノの鍵盤の上に、完璧な形でとつぜん現れることもあれば、散歩中に頭のなかにひらめいて、一刻も早くピアノで弾いてみたくなることもある。しかし、そこから悲痛な産みの苦しみが始まる。それは私がかつて見たこともないような苦しみだ。頭のなかできいた旋律を細部まで再現しようと、迷い苦しみ、いらだちながら、もがきつづけるのだ。ショパンは全体像としてとらえていた音楽を楽譜に起こすときに、あまりにも細かく分析しすぎる。そして、それをとらえそこなうと、つまり、思うとおりに明確にすることができないと、絶望に近い状態に陥る。自分の部屋に何日も閉じこもって、泣いたり、歩きまわったり、ペンを折ったり、ひとつの小説に百回くらい変更を加えたり、書いては消し書いては消しを繰り返す。そして翌日も、すさまじい忍耐で細部にこだわり、もう一度やりなおす。六週間かけてようやく一枚書きあげたと思ったら、それは最初に書いたのと同じだったということもある。

——ジョルジュ・サンド

 

言葉というものは、あたかも月をさす指のようなもので、指の示す方向において、みずから月を見出さなくてはならないと同じく、言葉そのものは、真の事実ではない。ただその言葉によって真の事実を悟ることが肝要である。

——安谷白雲師『禅の心髄、無門関』

 

そのときまで、私はこんな風に考えていた。正確にどう考えていたか細かいところまでは思い出せないけれど、だいたいにおいて物事というのはうまく行くものだし、自分が望んでいることや、あるいは自分がこうしたいと思っていることは、実現化されるものなのだと、そういう具合に。でもそのとき、コイン・ランドリーの中で、そんなことはまったくの嘘っぱちだと私は悟ったのだ。私は悟ったのだ——俺は今までいったい何を考えていたんだろう?——私の人生とはだいたいにおいてお粗末でケチな代物であり、混沌としていて、ほとんど光も通さないようなものなのだと。その瞬間に私は感じたのだ——私は知ったのだ——私が今身を置いている人生は、私が憧れている作家たちの人生とはかけ離れた類いのものなのだと。作家は土曜日をコイン・ランドリーで潰したりはしないのだ。そして目覚めている時間のすべてを子供たちのあれやこれやの雑用のために割かなくてはならないというようなこともないのだ。よろしい、よろしい、もっとずっと深刻な仕事への障害を抱えてやってきた作家が数多くいることは認める。投獄されたり、盲目だったり、いろんな形で拷問やら死の脅迫を受けてきたり。でもそんなことを知っていたって、何の慰めになるものでもない。その瞬間に——これは嘘偽りなく何から何までそのコイン・ランドリーの中で起こったことなのだ——私の目に見えるのはこの先何年もにわたって続くであろうこのような種類の責任と難渋のみであった。物事は少しくらいは変化するだろう。でも事態が本当に好転するなんていうことは決してないのだ。私はそれを理解した。しかし私にははたしてそんな人生を生きていくことができるだろうか? なんとかしなくちゃいけない、私はそのときそう思った。目標も引き下げられなくてはならないだろう。私は、後になって判明したことだが、真理を洞察していたのだ。しかしそれでどうだというのだ? 洞察とはいったい何だ? それが何の役に立つというのだ。そんなものがあったって、物事が余計にきつくなるだけの話なのだ。
 

長年のあいだ、妻と私は、一生懸命働いて正しいことをしようと努めていれば、正しいことは我々の身におのずから起こるものであるという信念にしがみついていた。それは人生を託すに足る信念である。ハード・ワーク、ゴール、善意、誠実さ、我々はそれを立派な美徳だと信じていたし、いつかそれは報われるだろうと信じていた。我々はその日が来るときのことを夢見ていた。でも、結局のところ、ハード・ワークと夢だけでは足りないのだということに我々は気づいた。どこかで、たぶんアイオワ・シティあたりで、あるいはもう少しあとのサクラメントあたりで、我々の夢はこわれ始めたのだ。
 

——レイモンド・カーヴァー「ファイアズ(炎)」

 

人間の生には、口にできないような苦しみが、言葉ではとてもいい表せないような極限的な傷があって、そのような苦しみを前にしてわれわれにできることは、誰もたった独りで苦しまなくていいように、そのことを代わって語ることだけだ––これはレイチェル・リーメンの『祖父の恵み』に引かれている、あるユング派の精神分析者の言葉だ。荒涼とした光景の中にいる髪ぼうぼうの子どもたちの姿は、「口にできない苦しみ」を想像させる。

 

——藤本和子『リチャード・ブローティガン』

 

現実はこの世にひとつしかないもので満たされているが、人がことばで書いたり話したりするとき、そのすべてをことばにすることはない。いや、むしろできないとさえいえる。この世にひとつしかないものをことばという記号に置き換えることはできない。ことばにして語るというのは、聞き手の概念に訴えるということなのである。勿論、話す者の概念にないこともことばにすることはできない。現実の固有なものと概念とは違う。固有なものと概念とを一致させるために、名前をつけたり、番号をつけたりするということはあるが、そのためには話し手と聞き手とが互いにそのものを知ってなくてはならないのである。ところが、ことばを書いて表現するというときは、書き手と読者とがその同じ固有なものを知っているということはまずはない。従って書いて表現するというときは、自分の概念を相手の概念に伝えるということになるのだ。それなのに、読者はあたかもこの世にひとつしかない物を見せられたかのような気持ちになれるのである。それは不思議といえば不思議である。全く行ったこともない外国の人が何十年何百年も昔に書いたことばの関係によって作り上げた事物の関係を受け止めることができるからであろう。人が生きるということは、現実の事物をどう受け止めているかということであり、受け止めるということは事物をどう結びつけているかということなのだ。その結びつけ方はことばの秩序の中での結びつけ方ということになる。

——鈴木志郎康『現代詩の理解』

 

僕は、およそ僕自身を咬んだり刺したりするような本だけを読むべきではないかと思っている。僕たちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚めさせることができないとしたら、それではなんのために僕たちは本を読むのか? 君の書いているように、僕たちを幸福にするためか? いやはや本がなかったら、僕たちはかえってそれこそ幸福になるのではないか、それに僕たちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどくい痛めつける不幸のように、僕たちが自分より愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用する本である。本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。そう僕は思う。

——フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』

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