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象がそこに佇んでいる――別役実の動物論 しだゆい

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象がそこに佇んでいる――別役実の動物論

しだゆい

 別役実の『象』(一九六二年初演)は病院を主な舞台に、一人の入院患者(「病人」)とその甥である「男」の対話を軸として展開される戯曲である。病人はかつてヒロシマで被爆し、時を経て病に倒れるまではときおり大道に立って背中に負ったケロイドを見世物にしていた。男もまた同じく「ヒバクシャ」であるが、叔父とは対照的に自らはただ息を殺してひっそりと生きてゆくことを望み、また叔父にもそうあってほしいと思っている。一方はおのれの実存を意味づけるために過剰な自己露出へと赴き、他方は自分の実在感を極限まで無化することで生の無意味をじっとやり過ごそうとする。互いにベクトルを異にしつつも同じ被爆という経験によってもたらされた歪みのかたちを薄暗い抒情とともに描き出したこの傑作には、ところでどこにも象が登場しない。「象」という言葉すら、表題を除いては一切現れない。もっとも、それ自体はさして珍しいことでもない。タイトルが内容とほとんど、あるいは全く無関係に見える作品などいくらでもある。となると重要なのはなぜ『象』なのかということ――つまりこの作品に固有の命名理由を問うことであるが、それもさしあたり措いておきたい。私たちがまずもって立ち止まらねばならないのは、そのように問う者を襲う、奇妙な疚しさである。

 なぜ『象』なのか。この問いがどこか白々しく響くのはおそらくそれが答えの探し方を予め定めてしまっているように見えるからだ。はじめに『象』というタイトルを認め、しかしそのもとに提示されるテクストのどこにも象そのものを見出せなかったとき、タイトルの意味を問う者はそこに何らかの象的なものを探し当てようとせずにはいられない。要するに「象」を一種の隠喩として解釈しようと試みるのである。実際、それは決して難しいことではないだろう。すなわち『象』というタイトルにおいて別役は自らを見世物としてきた病人の、老いとともに身体も衰えケロイドもシミだらけになってしまった鈍重な実存のありさまを動物園に寂寞として佇む老象の姿に重ねあわせているのであり……等々。

 とりたてて問題のある解釈とも思われない。ところが、この考えは一方である言い知れない抵抗感を呼び起こす。それはその種の解釈が単に安易すぎるからとか、被爆した人間を動物に喩えることに素朴な倫理的疑問を感じるからという以上に、隠喩(もしくは何かを隠喩として解釈すること)一般にときとして伴いうるある種の下品さ、猥雑さがここで不意に立ち現れてくるように感じるためである。この「感じ」はたとえば何か棒状のモノによって男性器を暗示する類いのごく下らない冗談を想起するとわかりやすい。たしかにそれは最も低級な隠喩ではあるが、低級であるがゆえにおよそあらゆる隠喩が潜在的に含意する独特の運動をすぐれて戯画的に示しているようにも見えるのだ。それは隠すべきものを隠すことによって暴くという、一種の欺瞞的な操作である。

 あるものを別のものによって表わすことで、隠喩は前者のもつ意味や本質をいっそう露わに見せることができる。しかしこうした操作は、裏返せば当の対象をそれ自体としては見えなくすること――さらに言えば「直視すべきではないもの」へと、いわばいったん貶めることで成り立っているのではないか。何かを隠喩として利用することへの批判はこれまでもしばしば行われてきたが(たとえば「病い」をめぐって)、おそらく隠喩を用いて指し示される側の対象もまた、その可視化されつつ不可視化される運動において、ある意味で辱められている。つまりそれが動物の隠喩であろうとなかろうと、喩えるという操作を通じて彼の存在に恥の烙印を押していることにこそ、この解釈の不埒さがあるのだ。そして実際、この作品においてはケロイドがまさしく「隠すべきもの」となったとき、病人の人生は明確に破綻をきたしはじめるのである。具体的には「原水爆禁止大会」の演壇上で彼が傷痕を披露してみせたときから――「なぜあの時みんな拍手をしなかったんだい?/熱烈な拍手をするだろうと……ね、思ってたんだよ。/観客はシュンとしている……。/〔中略〕気が付いたら観客は、だあれも居ないんだよ。/だあれも……居なかった」「あの原水爆禁止大会があってからいけなかった」「俺はそれから、見物人を喜ばせようなんて考えなくなった」。

 あるものを隠すことでいっそう露わにするというこの欺瞞は、したがってある種の偽善をも含んでいる。ケロイドを見て喜ぶのは政治的に正しいことではないという意識の高まりが、逆説的にも病人から生きることの支柱を奪ってしまうというわけだ。原水爆禁止大会のとき以来、彼は観客がケロイドではなく自分の「眼」を見ていることに気づく。人々はケロイドを直視することをせず、ただ眼を媒介として、彼の自己意識を通じて間接的にそれを捉えようとするのだが、それはそうすることでその傷のもつべき意味をよりよく見ることができるからにほかならない。

 ところがそのことをすでにはっきりと感じ取っていた男は、叔父に対し苛立ちを露わにしつつ次のように言い放つ――「もう誰も僕達を殺してくれる人なんか居ないんです」「「ケロイドが、伝染るといけないから」なんて言う人が居ますか?/誰もそんなこと言いやしない。誰も言いやしませんよ。/〔中略〕ねえ、それじゃまるで僕達は愛し合ってるみたいじゃありませんか?/そうでしょう。僕達を殺したり、僕達の悪口を言ったりするのは禁じられているんです。そういうシクミになっているんですよ。だからみんなニコニコしています。愛し合っているみたいなんです」。ところが病人にはこの理屈がわからない。彼は甥の言葉を受けて、嬉しそうに答える。「そうなんだよお前、俺達を愛してくれる人も居るんだよ」「俺達は愛し合っているんだよ」……そして最後の最後まで、その証しを自らの身体によって手に入れようともがくことを止めない。二人のコミュニケーションはこうして、どこまでもすれ違い続ける。

 自らをできる限り不可視化することによって、直視しうる理解可能な存在として包摂されることを選んだ男は、「隠すべきものを隠すことによって暴く」という隠喩的なまなざしのシステム(「シクミ」)を受け入れ、そこに取り込まれたいと願う。それに対し自らの身体をそのものとして視線のもとに晒そうとする病人は、結局のところ当の視線によって不可視の領域へと追放されざるをえない。したがってそれを「象」という隠喩によって再び理解可能なもののうちに取り込もうとすること――彼の生のありようをいくつかの属性に還元しそれを象として表象し直すことは、この悲劇に対する端的な裏切りと言うべきだろう。私たちは彼を彼として直視すべきなのであり、裏返して言えば同時に「象」なるものについてもまたそれを象そのものとして直視しなければならない。作品の入り口に佇む象の姿を、その一見した無意味の様相のまま佇むに任せておく必要があるのだ。ゆえに私たちが問うべきは「なぜ象なのか」よりもまず、別役にとって「象とは何か」ということである。そしてそうすることで象がそこに佇んでいることの意味が再び、隠喩という予定調和的な解決とは別様の仕方で見出されることになる。

 評論集『電信柱のある宇宙』に所収の「私と動物」と題する短いエッセイを、別役はある一本の電話に関するエピソードから書き起こしている。電話の主はさわやかな若い女性の声で「アンケートにお答えください」と言い、続いて有無も言わさず「猫はお好きですか」と問う。それに対し別役が「嫌いです」と答えると、次は「じゃあ、犬はお好きですか」と訊かれる。やはり「嫌いです」と彼が答えたところ、女性はなぜかひどく戸惑った様子で「何故ですか」と言うのだ。それでしばらく黙って考えてみたのだが、向こうが沈黙に耐えかねたのかそのまま、電話は切れてしまったという。

 これが実際にあった話かどうかは措くとしても(なにしろこれは別役実のエッセイなのだから)、続けて綴られる動物観そのものはあくまで彼自身の切実な体感を伴っているように思われる。「どんな動物が好きですか」と訊かれて「好きな動物はいません」としか答えることができないのは、何らかの動物を飼ったり、触ったり、抱いたり、可愛がったりする気が彼にはないという意味であり、それは必ずしも「関心がない」ということを意味しない。関心の有無について言うなら、彼はむしろ動物に対して「かなりの興味を抱いている」というのである。「たとえば」と彼は言う「牛や馬や象など、私よりも図体の大きい動物に出合うと、そのことだけで手もなく感動してしまう」。しかしその感動を「好き」などという言葉に置き換えることはできない。好きかどうかと問われれば「私は、象はやはり「嫌い」の方に分類するだろう。しかし、出合って感動はするのである」。

 別役によれば「象を象たらしめている要素」は「大きい」ことと「汚い」ことの二つに集約される。「つまり、私が象から受ける感動というのは、そうした救い難い汚さを、かくも大きくまとめあげた、と言う点にあると言ってもいい」「生きていること自体が面倒臭そうであり、もっと言えば、それらが象としての形になっていること自体が、面倒臭そうである。もしかしたら象は、毎日、自分が象であることに、背筋の寒くなるような思いをしながらいきているのではないか、とすら思われる。こうした象の、象たるがゆえのやりきれなさが、私にはよくわかるのだ」……。とはいえ、隠喩的な解釈を拒む私たちにとって重要なのは、別役が象の本質をどう捉えているかということではない。むしろ注目すべきはこの「わかる」という表現である。彼は「好き」という言葉に還元することのできない動物への「興味」や「関心」を「理解」と言い換えていた。すなわち「どんな動物が好きですか、と聞かれても、好きな動物はいません、と答える以外にないが、どんな動物を理解していますか、と聞かれたら、さほどはにかむことなく、象です、と答えることが出来ただろうと思う」と。

 したがって、ここで問題にされているのは愛を伴うことのない理解、むしろ愛と相反するような理解のありかたである。別役は動物を「好き嫌い」で判断する人を「余り信用したくない」と述べ、猫や犬が「好きです」とか「家族同様にしてます」と言って愛撫している姿を見ると「ぞっとする」とさえ言い放つ――「それは確かに「好き」には違いないだろうが〔中略〕「理解はしていない」に違いないからである」。

 ただしこの別役のスタンスは、動物に対する一方的な愛玩は人間のエゴである等々というありふれた道徳的非難とはおそらく似て非なるものだ。動物のことをよりよくわかっているからこそ自分は敢えて突き放した態度をとるのだという訳知り顔のマウンティングなら、どこにでも転がっているだろう。それに対し別役が動物に対する関係を「理解」という言葉で表明するとき、そこには絶望的なまでのディスコミュニケーションの感覚が避けがたく伴っている。重要なのはそこである。エッセイの末尾で別役は、はじめて自分の娘と上野動物園に行ったときのことを次のように語っていた。彼は「娘を抱き上げて、象を指さして言った。/「ほら、あれが象さんだよ……」/しかし、それ以上、何をどう伝えていいのか私にはわからなかった。動物は、難しいのだ」。

 動物は難しい――たとえそれを「理解」できたとしても、その理解は言葉によって伝達しえないものであり、したがって意味へと終着することがない。ゆえに象が象として理解されるというとき、それは先に見た「隠すべきものを隠すことによって暴く」隠喩的なシステムへの包摂とは無関係なところで生じている。まるで愛し合っているかのような、そんな見かけを伴うこともない、それは社会の「シクミ」によってもたらされる理解可能性とは全くかけ離れた、ほとんど無理解と見分けのつかない「理解」なのである。こうして私たちは『象』というタイトルの意味をめぐる最初の問いに帰り着く。すなわちそれはあの病人を(あるいはそのほかの誰かを)象として見ることを禁じながら、しかし象を見るように見ることを厳格に指定しているのではないか。別役にとって象とは、いわばある種のまなざしのモデルなのだ。愛することも包摂することもなく、いかなる証しも欠いた状態の、しかし「理解している」としか言いようのない他者への関係。たとえば男は叔父である病人の「ケロイドの裸男」としての生き方を嫌悪しつつ、たしかにそれを「理解」していた――あるいはどうしようもなくわかってしまったのだと思う。そのような極限的で、ともすれば絶望的な「理解」の関係が作品のうちで(男と病人、病人と妻、妻と通行人等々もしくは彼らと私たちのあいだに)張りめぐらされる、というかたちでそこには象が偏在している。彼らは、そして私たちはそうした関係性において、隠喩ではなく――ということはいささかも象に似ることなしに、象になるのだ。テクストの門口に印字された一頭の象の存在はおそらくそのための導きとして、暗い予感のようなものを帯びたままじっとそこに佇んでいるのである。

註記
 本稿における引用はもっぱら以下の二冊からおこなった。なお原文における傍点箇所は太字に置き換えている。

 別役実『別役実I 壊れた風景/象』ハヤカワ演劇文庫、2007年
 別役実『電信柱のある宇宙』白水uブックス、1997年

 ところで本稿は副題に「別役実の動物論」と銘打ちながら事実上『象』の読解に終始したものであり、看板に偽りありとまでは言わずともいささか不十分の感は否めない。別役の動物に関する考え方を真正面から論じるためには『獏』などをはじめ動物がより直接的なモチーフとして登場する他の戯曲に加え、諧謔に満ちた動物(偽)誌『けものづくし 真説・動物学大系』(平凡社、1982年)のとりわけ「動物園」の項を取り上げないわけにはいかないだろう。ここで別役は「私と動物」の末尾に触れられた「我が子に象を見せる」という経験をより詳細に、発展させたかたちで論じている。

 また上記の引用文献とは別に、本稿の準備段階においてジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる『千のプラトー 資本主義と分裂症』(宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010年)第10章を再読していた記憶が、とりわけ結論部の「象になる」なとどいう(唐突かつ少しばかり軽率な)記述に影響していることもここで白状しておく。とはいえドゥルーズもまた別役と同様、愛玩動物に対し強い抵抗感を表明してはばからなかったことを思い出すなら、これはあながち無根拠な参照でもないかもしれない。この点は別稿を期したい。

未分類/読書会

ネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」

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ぷらぷら読書会記録  2017年4月 ネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」(小竹由美子訳)


今回の課題本はネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」。みんな大好き新潮クレストブックです。

参加者満員。プレゼン担当は、ジョブホッパー竹田純氏と深沢レナ。

ぷらぷら外国文学枠2人組よりお届けします。

 

1  ネイサン・イングランダーについてあれこれ

イングランダーは1970年、アメリカ・ニューヨーク生まれのユダヤ人系米国人で、敬虔なユダヤ教徒の両親のもと、ユダヤ教正統派の町で育ちます。ユダヤ教の学校で高校まで教育を受けますが、アメリカに暮らしながら、あくまで自分をユダヤ人と感じて生きてきて、ホロコーストは常に身近な主題だったといいます。

その後、ニューヨーク州立大学に入学。大学3年生のときにイスラエルに行き、信仰を捨てて本格的な執筆活動を始めます。アイオワ大学のライターズ・ワークショップでマリリン・ロビンソンに指導を受けたとのこと。1999年には初の短編集を出版(未邦訳)、2007年には初の長編を刊行(これも未邦訳)。2012年に『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』でフランク・オコナー国際短編賞を受賞。現在ブルックリン在住で、ニューヨーク大学で創作を教えているとのことです。

『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』は、明らかにレイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』にちなんだタイトルとなっているのですが、夫婦二組という登場人物や、会話文の多用といった表面的な類似のほか、物語中なにか大きな事件が生じるわけではないのに、なにげない会話や態度だけで、それまでの関係性が修復不可能なほど崩れてしまう恐ろしさ、などがカーヴァー作品と繋がっているかと思われます。

といっても、わかりやすくオマージュになってはおらず、イングランダー自身は

カーヴーの短編は十五年前に読んだきりだった。そして自分の短編として書き上がったとき、元のカーヴァーの短編は全部バラバラになっていた(Cultural Critic Interview)

と語っていて、強い繋がりなどは意図していないようです。

イングランダーが仲良くしている作家には、エトガル・ケレット、ジョナサン・サフラン・フォアなどがいます。フォアが表紙に推薦文書いてますね。大学の時にイスラエルに行くというのも、自分のルーツを問題に取り上げるのも、なんとなくフォアと似ているかも。

 

 

2 閉ざされた空間と、次々と現れる隠されたものたち

 

あらすじ

フロリダに住む主人公とデビーはユダヤ人夫婦。そこにデビーのユダヤ教学校時代のローレンと、夫のマークが来訪する。ローレンとマークはイスラエルに移住した正統派ユダヤ教徒だが、主人公とデビーはさほど宗教的ではない。対照的な二組の夫婦のぎこちない会話が始まる。

マークは宗教なしに家族は持続するのか、と問うが、主人公はいやな気持ちになる。デビーとローレンが昔の思い出をきっかけに思い立ち、四人全員でマリファナを吸う。そこに大雨が降ってくる。マークは涙を流す。彼が今住んでいるイスラエスでは雨はまず降らない。四人は手をつないだまま庭で雨にうたれる。

部屋に戻った彼らは「アンネ・フランクゲーム」を始める。もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるかを予測する遊びだ。—––連れ合いはユダヤ人である自分を通報するだろうか? 主人公とデビーは互いに大丈夫だと即答する。だが、ローレンは一瞬ためらってしまう。マークは私を突き出すかもしれない。そう思っていたことに自分で気づいてしまうのだ。その気持ちは、周囲の全員に伝わっていく。誰も何も言わぬまま、四人は食料貯蔵室でじっと向かい合う。

 

 

登場人物がちょっとややこしいのはイングランダーの特徴のようで、冒頭から固有名でいきなりはじまるので若干こんがらがりやすいです。簡単にまとめると、

  1. デビー(デブ):僕の妻
  2. トレヴァー(トレヴ):僕とデビーの息子
  3. ローレン(ショーシャナ):デビーの旧友
  4. マーク(イェルチャム):ショーシャナの夫

呼称が複数あり、語り手の「僕」が度々言い換えるので、それもこんがらがる一因となっています。

ホロコーストを背景に扱っているのでタイトルだけみると一見シリアスな印象を抱きますが、読んでみると語り手の「僕」は口語的で、読者への呼びかけを行ったりして、読みやすく、コミカルともいえる。

「僕」は、真面目なマークにいきなりヘビーな話をされてやや引きぎみ。好き嫌いのわかりやすい語り手です。そしてそのマークへの距離感を隠そうともせず、マークに対してはかたくなに「マーク」と呼び(一回だけイェルチャムと呼ぶ)、割と好意的に思えるようになったローレンのことは「ショーシャナ」と呼び改めるようになります。

この複数の名前についてですが、カギカッコ内だけでなく、地の文で変化するというのはめずらしいとの意見もあがりました。たしかにあんまりみないかも。

この物語では、4人のメンバーの立ち位置がかわったり、天候が変化し、外に出たり、また戻ってきたり、と、短い短編ながら場所の移動が多く描かれています。

それは心情の変化もおなじで、「僕」は周りの3人に対し、不安感を抱いたり、親密になったり、嫌いになったり、好きになったりと感情がこまめに変化します。妻のチャラい過去を知ってしまってめちゃめちゃうろたえたりしてかわいいんですが、そういった細かな変化を、呼称の使い分けによって表しているのかもしれません。

物理的な移動のきっかけになる小道具がマリファナですが、それが出てくるのは息子トレヴァーが洗濯物の中に隠したミントタブレットとなっていて、そのことを知りつつも「僕」に話さなかったデブに、「僕」は不安感を抱きます。

思えば、この小説は「閉ざされた空間の内側から、隠されたものたちが次々と立ち現れてくる物語」とも考えられます。タブレットの箱の中から現れる息子の秘密、デヴの過去、地下の食料貯蔵室でのゲーム、はその典型ですが、ショーシャナとマークの外見にもわかりやすくあらわれている。

ショーシャナは巨大なマリリン・モンロー風ブロンドかつらをかぶっていて、夫のマークは黒服を着て、大きな黒い帽子をかぶり、毛深いひげにおおわれ、露出しているのはわずかな部分だけ、と描写されています。重装備なマークは、規律・儀式でかためている外面と重なっているかと思われます。

途中でマークは帽子をとり、ショーシャナはかつらをとる。それと、アンネ・フランクゲームによって二人の関係性のもろさが明らかになっていくという主軸とが、構造的にパラレルになっているようです。

 

 

3 アンネ・フランクゲーム、ぜひカップルでやってみてね

タイトルにもなっている「アンネ・フランクゲーム」なのですが、これについては、ネイサン自身が妹と実際にやっていたことを語っています。

二十年前のことです。ちょうど僕が二十歳くらいの頃ですね。妹が誰かについてこう言ったのを覚えています。「彼は私たちを匿ってくれるけど、彼女は通報するでしょうね」。その言葉について二十年間考えてきました。彼女の言っていることは正しいなって、そのとき感覚的にわかったからです。こうした感覚がこの作品の終わりにも出てきます。一瞬で世界が変わってしまったら、僕を救うために本当に命をかけてくれるのは誰だかわかる。そして誰が通報するかもわかってるってね。(The Beer Barrel Interview)

 

もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるか?

その問いはだんだん深まり、やがて、自分たち夫婦間ではどうだろうか? という問いになっていきます。

緊張感の流れる中、「僕」は匿ってくれるだというか、という問いに、デブは「もちろん、この人はそうしてくれるわ」と答える。一方、あなたたちもやってみて、といわれたマークは「そんなことをしてなんの意味があるんだ?」と嫌がりながらも、しぶしぶやりはじめる。しかし、これが悲惨な結末を生むことになります。

 「で、僕は君を匿うかな?」彼は本気で訊ねる。そしてその日初めて、僕のデブがやるように手を伸ばすと、妻の手に自分の手を重ねる。「僕はそうするかな、ショーシ?」

 すると、ショーシャナが子供たちのことを考えているのがわかる、シナリオにはなかったのだが。彼女が想像することの一部を変えたのが見て取れる。それから一呼吸おいて、うん、と答えるが、笑ってはいない。うん、と彼女は答えるのだが、それは彼には僕たちに聞こえるのと同じように聞こえるらしく、彼は今や何度も何度も訊ねる。だけど僕はそうするよね? 君を匿うよね? たとえ生きるか死ぬかでも—––君は助かって、そうすることで僕だけが殺されても? 僕はそうするよね?

 ショーシャナは手を引っ込める。

 彼女はそれを口にしない。彼も口にしない。そして僕たち四人の誰も、口にできないことを言うつもりはない—––この妻は夫が自分を匿ってはくれないと思っているということを。どうすればいい? これからどういうことになるのだろう? だから僕たちはそんなふうにして突っ立っている、四人で、あの食料貯蔵室で抜き差しならなくなって。ドアを開けて、僕たちが閉じ込めたものを表に出すのが怖くて。

 

ショーシャナは、おそらくマークが匿ってくれないだろうということに気がついちゃいました。わあ、大変。さあ、別れるんでしょうかこの夫婦。その答えは出ないまま、小説は終わります。

なぜそこで、匿わないであろう人物は4人のなかでマークだったのか、という疑問については、都甲幸治さんが以下のように述べています。

 

アンネ・フランクのゲームはマークへの痛烈な批判になっている。本当の危機のとき、宗教や伝統さえも役に立たない。妻は、夫を腹の底から信じることができてはいないし、夫婦の間に開いた深淵を埋めるための出来合いの方法なんて存在しない。 (『生き延びるための世界文学』)

 

マークの原理主義的なものの考え方は、立場がかわってしまえば、危険なものになりうる。ここでは、あくまで宗教は表面的なもので、剥ぎ取られるかつらのようなものなんですね。そういう意味で、この話はユダヤ人だとかアメリカ人だとか特定の人種や宗教という服をかっぱらい、裸になった夫婦や友人といった普遍的なものにまで掘り下げています。

レイモンド・カーヴァーの描く夫婦や家族というのも、労働者階級という設定を外しても、普遍的な人間同士の関係にまで踏み込むものでした。その点において、イングランダーとカーヴァーの作品は通底しているのかもしれません。

イングランダーは、自分の描くものについてこのように述べています。

 

私が書くのは、寂しさやうれしさ、恋しく思う気持ち、孤独、希望、何かを失うこと……それだけです。そして感情を描写する時には、私の悲しさを書けばあなたもその悲しさが分かる、と考える。普遍性は私にはコントロールできるもので。なすべきは記憶の集積である現実を、ストーリーとして語ることだけです(産経新聞)

 

イングランダーの作品には、固有名詞が多く、Twitter、facebookと言った現代の言葉が入ってくるのも特徴なのですが、そういったいわば期間・場所の限定的な言葉の奥に、ものすごく普遍的な物語が見えてくるようです。

身近なものこそが不気味なものとなる——「見慣れた」ものや「親しんだ」ものこそが「不気味」となりうるのだ、というフロイトの概念をこの小説に当てはめてくれた子もいました。実は自分はぜんぜん家族のことを知らないのではないか、という不安は、家族だからこその恐怖ですよね。

また、その「不気味なもの」が立ち上がるきっかけとなるのが、二組の夫婦どっちにおいても「子供」の存在である、という鋭い指摘も。本来つなげる存在である子供が、この小説においては、切断する役割を果たしているようです。

 

 

4 だって、彼らが僕たちを憎むから

この短編集には8つの短編がおさめられていますが、二人の義姉妹からはじまる長い歴史を年代順に描いた「姉妹の丘」、ピープショーをめぐり現実と妄想がまざりあう「覗き見ショー」、イングランダー自身を思わせる語り手が彼女との関係の破綻と自分の家族について箇条書きで語った「母方の親族について僕が知っているすべてのこと」など、イングランダーはいろいろなスタイルで大抵ストレートに問題を打ち出してきます。

なかでも、「キャンプ・サンダウン」は読んだ後いたたまれなくなりました。

主人公は高齢者向けキャンプの管理をする中年の責任者。やや認知症ぎみの老人たちに日々振り回されています。新しくやってきたメンバーの一人がナチスの収容所の衛兵だと思い込んで被害妄想になっていくユダヤ人の老人たち。すれ違いざまにわざと「ハイル」と挨拶する、といった嫌がらせをしはじめます。最初は、注意してなんとかやめさせようとしていた主人公ですが、老人たちはエスカレートし、主人公が夜のプールにあわてて駆け出していったときにはもう手遅れになっている。主人公は呆然とたちつくし、8人の老人たちと並んで、歩いて行く亀を見つめる。

悲惨ながらも、イングランダーの作品は、終わり方に余韻があって印象的です。

ユダヤ人と反ユダヤ主義者の報復の問題を描いた「僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか」では、反ユダヤ主義者にいかに反撃するかと、少年たちが試行錯誤する様子が描かれます。若く軽い語り口をつかっているので、青春小説のような爽やかさがある一ぺん。最終的に報復をはたすのですが、実際に相手を傷つけた瞬間、どうしたらよいのかわからなくなってしまった少年たちの姿が描かれています。

 

 彼を見つめながら、自分は常に、打ち砕くよりは打ち砕かれるほうがましだと感じるだろう——僕の弱点だ—––と僕は悟った。そしてまた、僕たちを貫く低いざわめきは単なる神経過敏で、あたかも復讐には音が組み込まれてでもいるかのように、想像上の反響に敏感になっているだけなのだということもわかっていた。

 そのとき僕たちが実際に共有していた気持ちは単純だった。あの日僕たちといっしょに立っていた誰もが同じことを言うだろう。反ユダヤ主義者を足元に見ながら、僕たちは皆当惑に襲われた。僕たちは押しつぶされた少年を見つめてそこに立っていた。そしていつ駆け出せばいいのか、誰にもわからなかったのだ。

 

ぷらぷらで唯一、世界一周放浪経験のあるすみえちゃんは、以前、アラブの人に「どうしてユダヤ人を憎むのか?」と聞いたところ、その答えは、"Because they hate us. "だったといいます。そりゃそうだよね。

この短編集の最後に収められている、「若い寡婦たちには果物をただで」のお父さんのセリフがしみました。

 

「だけどなあ、息子よ、誰が死ぬべきか決めるだなんて、俺たちはいったい何様だよ?」

 

 

(文責 深沢レナ)

読書会

ぷらぷら読書会記録 伊藤重夫『踊るミシン』

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ぷらぷら読書会記録  2017年5月 ①伊藤重夫『踊るミシン』

1 わかんない×わかんない×わかんない=でも面白い

発表者は漫画研究者の猫もどき、猫石くん。ということで課題本は漫画です。伊藤重夫『踊るミシン』。

わたしには聞いたことのない作家だったんですが、233頁もあるし、せっかくなので買おうと思ったら絶版なんですね。『踊るミシン』を復刊したい!というクラウドファンディングも立ち上がってました。がんばれ。

と、いうわけでみんなで読んでいったのですが、とにかく多かった感想は、1「わからない」、2「難しい」、3「でも面白い」。

あらすじにまとめるにはなかなか苦しい作品ですが、一応基本情報をまとめると、

 

舞台は西神戸。街のすぐ近くには海がある。

主人公の浪人生・田村は家出をして友達の長井と一緒に下宿をし、バンド活動をはじめる。高校の時から付き合いのある麗花がバンドのマネージャーになったりして、なんだかバンドは盛り上がる。

田村はパスタを茹でたり、海水浴に行ったり、麗花とセックスしたり、入院している大家さんに会いに行ったりする。

麗花は風呂場で踊ったり、海の堤防で踊ったり、田村とセックスをしたり、腕を切ったりする。

背後では鳥の頭をした鳥男が空中浮遊してるし、いきなり押し入れの中にブラックホールが出現するけど、田村の日々はのんびり平和。

バンドの演奏が無事成功したあと、田村はバンドをやめ、大家は死に、下宿は取り壊され、家に帰ることになる。THE END。

 

そんな話です。

一見、普通の地味な少年×若干メンヘラ少女による青春ストーリーにも思えるんですが、実際に読んでいくと、時間軸はバラバラだし、登場人物の会話は噛み合ってないし、解決されない話は多数あるし、単純にストーリーを追っていくのも大変です。ってかキャラクターがみんな似すぎだろ。見分けつかない。

 

だいたい鳥男やブラックホールってなんなの? という、意味のわからない挿話もあります。

冒頭、少年の前にいきなりあらわれる鳥男ですが、他の人には見えなかったり、写真にはうつらなかったり、鳥男が実際にいるのかいないのか、夢なのか現実なのかも明らかにされません。囚人服のような縞模様のパジャマを着ており、何かの象徴のように思えるけれど、出現するタイミングに一貫性がない。一瞬、踊る麗花の影が鳥になったりするのと関係があるのかどうかもわからない。

↑鳥男(上)と、踊る麗花の影(下)

また、押入れに突如出現したブラックホールは「THE END」と名付けられ、しかも、そのあとは全く話にでてこない。まさかの捨てエピソード。

↑これがTHE END

最初、作品のタイトル横には、思わせぶりな「自殺のための5教程」という言葉があります。なにやら示唆的だな、とこちらは身構えて読み、実際作品中でもやたらと人が死ぬんですが、でも、そのつながりがよくわからない。自殺だったのかどうかもわからないし、彼らの死が関連しているのかも特に触れられることはない。さまざまな出来事の相互関係がはっきりせず、ひとつひとつの話が断絶している。

そもそもタイトルの「ミシン」も全然でてきません。いったいなにがミシンだったのか? とにかく語られず、回収しづらいのです。

あとがきで村上知彦はこう言います。

伊藤重夫はいつも唐突に語り始める。この「踊るミシン」はいくつもの断片的なシーンが、時間軸をジャンプして、自在に繋ぎ合わされて構成されている。そして、それらのいくつものシーンで登場人物たちは前後の脈略など意に介せず、あまりに唐突にその場に必要な言葉のみを、ストレートに語りはじめるため、読者ははじめのうちしばしば混乱に陥ることとなる。そして、その言葉の意味を読者が充分つかみきれずにいるうちに、場面はまた唐突に、ジャンプしてしまっているのだ。あるエピソードでは、何の説明もないまま結果だけが示され、あるエピソードにはいつまで待ってもその後どうなったかという結末がついに語られない。(「陽のあたる場所『踊るミシン』を読む」)

その「何の説明もないまま」示されるのが、長井と麗花の死という結果なんでしょう。

 

 

2 伊藤重夫+キザ+センチメント=村上春樹

「村上春樹作品と似ているけど似ていない」という指摘が読書会中かなり出ました。

あとがきでも「中国行きのスロウボート」に言及されていますが、でも、春樹作品よりもっと脈略がなく、わかりにくい。

村上春樹の初期作品では、あえて軽い事柄と重い事柄を並行して語ったり、人の死という重いものを重く描かないような工夫がなされてました。そういう「重いものを軽く描く」姿勢や、安西水丸や佐々木マキを思わせるようなポップな絵柄や文体、神戸という舞台設定は類似しているのですが、でも春樹のキザでウェットな感じがない。

というのも、春樹の初期作品では「黙説法」が用いられ、中心にある重要なことを語らない語りになっていて、一見、エピソードごとに断絶があるようにみえるのだけど、実はエピソードはつながっていて、けっこうわかりやすく集約できるし、読み手はセンチメンタルに感じられます。一方、『踊るミシン』の場合、思わせぶりでなく、「黙説法」という以前に話が断絶されまくっている。中心が隠されているというより、ほんとうに中心がなく、話が拡散している印象を受けます。

最後のシーンで、猫に向かって田村がいう言葉、

「猫がセンチメンタルになるなよ」

「次の場所探せよ」

この一言に違いが表れているかと。

ついでに猫石くんが持ってきてくれた資料を引用すると、

「『踊るミシン』には、死を巡ってのテーマとさらに自殺が隠ゆとして横たわっているが、描かれた人物たちが表面的には極めて明るく、重苦しさを全く感じさせない。スッと読めば、ごくありふれた"青春叙情詩"なのだ。しかし、そぐだけ削ぎ落とし、選び抜いたコマで構成された伊藤さんの固有の描法に気づけば、描かれなかったコマとコマの間にパックリと虚無の空間が口を開けていることがわかる。その裂け目は、しっかりと描き込まれた垂水という街と海の明るい風景が一見覆い隠しているようでもある。」

糸野清明「日本文化の最前線13・劇画ニュー・ロマン」 (神戸新聞1987年1月10日)

というのがありました。

確かに死のにおいはずっとあるのですが、 どこか、あっけらかんとした明るさがあります。

それは、かわいい絵柄というのもあるし、少女漫画的な浮遊感とも関わってくるのかもしれないです。

急に地の文で独白や回想がはじまったり、「親父が来てたよ」という長井の言葉に対して田村がいきなり凧揚げの話をはじめる。その突拍子のなさから大島弓子作品との類似も挙げられたりしたのですが、少女漫画というのはなによりも、独自のコマ構成をつかうところに特徴があるのだそうです。

夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』の11章「少女マンガのコマ構成」には、

70年代以降の少女漫画によって開発され、部分的に他のジャンルの漫画にも使われるようになった独特のコマ構成、たとえばコマの余白=間白を強調したり、余白そのものをコマにしたり、コマを重ねたり包み込んだり、といったコマの基本原理ではとらえきれない描き方は、いずれもとても緩やかで軽い印象を与える。ほとんど時間が停止したような浮遊感を生み、読者の心理を誘導する機能が解除され、軽い伸びやかな解放感を感じさせることになる。

ということが書かれています。

この作品でも、謎のコマがちょくちょく出てくるのですが、いきなり挟み込まれる麗花が傘がを飛ばすコマは、時間が無にされているんだそう。吹き出しにセリフもないし。

 

 

 

3 遊びが多いよね

唐突に描かれるコマであったり、エピソードであったり、ほかにもとにかく、作者の遊び心がいたるところで感じられます。

たとえば、本来、黒い影というのは夜か昼か、過去か未来か、といった指標となるらしいのですが、そういうルールに関係なく、影がいきなり反転したりする。こういった「反転」はしょっちゅう描かれていて、麗花が浴室で手首を切るシーンでは、影が本体で、本体が影であるかのように動きます。また、田村と麗花がセックスをするとき、電気を消したにもかかわらず、背景の色がカラフルになっていたりするし、肌の色が突然かわったりもする。

 

それと、さっきセリフのない吹き出しがありましたが、ほかにも、誰もいないところに吹き出しがあったりもするし、歌とかセリフとかがときどき描き文字にされてカワイイ。イマジナリーラインを平気で超えたり、位置がめちゃくちゃになったりもする。

また、鳥男という存在は、つげ義春の『無能の人』からの、ゴジラの人形やうしろにいるゴリラは林静一『赤色エレジー』からの引用だそうです。他にも引用で遊んでいるところがあるのかもしれない。

なんだか、浮遊感のあるフワフワしたマンガではあるのですが、背景のビル、建物、看板といったものはしっかり描かれているのも特徴的でした。しかも、田村たちが演奏するライブバーの「WETHER REPORT」という看板は、須磨に実在していたらしいです。

それと、神戸で記者として働いていた経験のあるジョブホッパー・竹田純さんによれば、村上春樹の出身地の芦屋といった東側と、明石市や姫路よりの西側は全然雰囲気が違うそうです。西側はよく事件の起こる陰惨な地区で、垂水区には、埋め立てが進みまくって団地マンションが建ちまくっていて、塩気のつよい風に当たり壁はハゲている。そういう「神戸漫画」として読めたとのこと。場所の存在感がありますね。

 

 

 

★ほかに挙がったいろんなコメント★

・THE ENDっていうのは、可視化された物語の終焉では?

・落下のイメージが多々ありますよね。「私をここから落っことさないでよ」という麗花のセリフ、手首を伝う血、飛び降り自殺の噂、ベッドからの落下、落ちるぬいぐるみ、花火、階段などなどなど。

・エドワード・ヤン『クーリンチェ 少年殺人事件』と似ているんじゃないですか?

・コマというのは1コマから成り立つのではない! 全体があるからこそ成り立つんです!
・春樹にも『ダンス・ダンス・ダンス』や『神の子どもたちはみな踊る』だとか「踊る」ということが描かれているけど、この時代における「踊る」ことの意味合いってなんなんだろう?

・大量の窓がこわい。

 

 

***

 

田村が麗花と彼女の家に行き、部屋の背景が描かれるとき、母親の顔を消した写真がちらと写ります。麗花はナイフを持ち歩いていたり、嘘ばっかりついたりするんだけど、ひたすらかわいい。精神的に危うい少女ってなんだか魅力を感じませんか?

わたしはとにかくここを描きたいがために『踊るミシン』という作品は描かれたんじゃないかと、この見開きの一コマをみてひたすらぐっときました。

 

 

 

(文責 深沢レナ)

批評

正しく恋に落ちないこと――佐々木倫子の「君の名は」 しだゆい

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正しく恋に落ちないこと――佐々木倫子の「君の名は」 

しだゆい

 

 

 昨年、新海誠監督の『君の名は。』がおおいに流行した。このタイトルは、周知のとおり敗戦まもない1952年から放送されこちらも当時おおいに流行したというラジオドラマ『君の名は』を下敷きにしている。『君の名は』から『君の名は。』へ――これは京マチ子から今日マチ子へのそれにも匹敵するエポックメイキングな(知名度のうえでの)交代劇であったと思うが、ここではそのいずれとも隔たったところで、流行とは無縁にひっそりと著されたもう一つの「君の名は」を取り上げたい。それは『動物のお医者さん』で知られる漫画家・佐々木倫子の初期連作「忘却」シリーズのなかの一篇である。

 佐々木の「忘却」シリーズは、視力も記憶力も特に問題ないにもかかわらずなぜか人の顔を覚えるのが異様に苦手な高校生・黒田勝久を主人公とする各話読み切りのコメディ作品だ。当然ながらどのエピソードも勝久が誰かの顔を覚えられない、あるいは思い出せないことが話を動かすギミックとなっているのだが、ここで論じる「君の名は」は、この基本設定がもっともシンプルかつ効果的に用いられたシリーズきっての佳作であると思う。
 家族で山菜取りに来た勝久が愛犬・ルイと木の下で休んでいると、ふいに近くの茂みから物音がして大きなヒグマが現れる(舞台は北海道)。目を逸らすこともできず、今さら死んだふりもできず、かといって逃げれば追われるという膠着状態のさなか、突如カンシャク玉が爆発、砂埃の舞うなか何者かに手を引かれ勝久とルイはヒグマから逃げ出すことに成功する。助けてくれたのは見知らぬショートカットの少女。「もうだいじょうぶだと思うけどこれあげる」と予備のカンシャク玉を手渡し颯爽と去りかけるところを呼び止め、勝久が「君の名は…?」と尋ねると、彼女は少し考えたのち「…じゃあ一か月後にここで会うことにしましょう」と答えるのだった。
 この少女は名を浅羽莢子といい、実は勝久と同じ高校に通う同級生、しかもかねてより彼にほのかな恋心を抱いていた――「みんなは黒田くんのことをトンチンカンな人だと言うけれど/私はそれほどとも思わない」。目を閉じ、思わずほころぶ口許をしとやかにノートで隠しながらのモノローグでなければ恋しているとも察しがたい、きわめて絶妙な表現だ。とはいえ出会いの翌日さっそく校内で勝久と遭遇しかけた莢子が“一か月後の再会”という演出をぶちこわさぬよう身を隠す場面で、彼女は確かに「やっぱり恋愛には舞台効果っちゅうもんが重要なんだからして」と明言しているし、腐れ縁らしき友人・佳葉が彼女の期待に水を差せば「あの時はたしかに恋愛のはじまりみたいな雰囲気があった!」と言って食い下がる。かなり輪郭の定かな、意外にもふつうの片想いなのである。
 たとえば『動物のお医者さん』がそうであったように「忘却」シリーズにおいてもベタな色恋沙汰が描かれることはあまりない。勝久のワンテンポずれた物腰にはそもそも恋愛への関心自体を見出しにくいし、三本木というバディ(幼稚園以来の幼馴染で、人間関係はほぼ重複しているので勝久の覚えられない顔は基本的に彼が記憶している)とのズブズブな関係もその印象を念押ししているところがある。この二点は『動物』のハムテル(と二階堂)にも共通することだけれど、にもかかわらず――あるいはそれゆえに一層――私たちは彼らの描かれざる恋愛事情をめぐってついつい二次創作的な妄想をいだきがちであるようにも思われる。おそらくその理由の一つが、勝久もハムテルも作画上、美形と判断しうる余地を多分に残しているということだろう。こう何やら煮え切らない言い方になってしまうのは、佐々木作品においては女性も男性も基本的に美しく整った顔立ちで描かれるからにほかならない。もちろんこれはおおよそ少女漫画一般に認められる傾向で、仮にある人物の容姿が比較的冴えないとされる場合も、そのことはクセっ毛やそばかすなど副次的な特徴によって控えめに表象されるにとどまり、骨格や体形レベルで作品世界の標準的なボディデザインの型を逸脱することはおそらくあまりない。ただ、そのなかでも佐々木作品は容姿の差異を示す表徴がとりわけ徹底して希薄にされているのである。
 たとえば同シリーズ中の一篇「山田の猫」に「日本的美観からいって美しいとはいえない」という設定の女性が登場するのだが、彼女が(変わり者であることは明らかであるにせよ)美人でないことを姿そのものから読み取るのは難しい。周囲の人物の反応から判断するか、もしくはその奇抜なファッションセンスが、特定の社会において設定された一般的な美の基準からの逸脱をかろうじて視覚的に表示しているにすぎない。つまり佐々木の作品世界において人物の美醜は物語設定上の単なる取り決めとして、登場人物の顔や身体からは完全に外部化され、非本質化されているわけだ。実際「君の名は」の莢子についても、勝久は「かわいい」、佳葉は「十人並み」、本人は「そんなにブスではないと思うんだけど」というように作品内の評価は必ずしも一定せず、読者がその容姿をどう見るかはある程度、個々人に開かれている。ましてや容姿をめぐる評価が作品内でほとんど明示されることのない勝久が「格好いい」かどうかを画に基づいて決定することはまず不可能であり、翻っては「モテている雰囲気はないけれど、実は格好いいのではないか」という仮説を個人的な妄想の範囲内で展開することも可能となる。密かに推す、という甘美なスタンスを読者に許すのである。ここで先述の「みんなは黒田くんのことをトンチンカンな人だと言うけれど/私はそれほどとも思わない」という言葉を思い出すならば、この隠微で両義的な言い回しは、公式設定の保証を欠いたまま「実は…ではないか」という曖昧な予感を萌していた読者の心理をそのままなぞっているようにも読める。この意味で、莢子は一種メタ的な視点で勝久を慕っていると言えるのではないか。要するに彼女の登場が勝久の作品内の立ち位置に大きな変革をもたらすことはないのであって、それは明らかに冴えない主人公に訪れた僥倖というわけでもなければ、かといって彼がモテることの証明材料にもならないのである(そういえば新海誠の『君の名は。』では主人公・瀧を、三葉の言葉で「東京のイケメン男子」としてはっきりと定義していたが、そうした含みのなさは本作と非常に対照的だと思う)。莢子の恋は作品の世界観をなんら揺るがすことなく、彼女のときめきは妄想する私たちのときめきと実にたやすく重なりあうことになる。

 物語を読み進めよう。勝久との思いがけない遭遇を避けようとした莢子だが、間も悪く佳葉が声をかけてきたため彼の視界に入らざるをえなくなる。ところが莢子の顔を全く覚えていない勝久は当然のように彼女をスルー、さすがに衝撃を受ける莢子――「だってきのうのきょうで/仮にも私は命の恩人よ」。さらに追い打ちをかけるように、複数の知人から連続して名前を間違えられるという出来事も経て彼女は急速に自信を失いはじめる。「私は印象が薄いのかもしれない」「印象の薄い私と記憶力の悪い黒田くん/デートのたびに自己紹介してたりして」……それはそれで(メルヘンとして眺めるぶんには)素敵な気もするのだが、結局、莢子は約束の場所に行かないでおこうと決意してしまう。すでに夏休みに入っていて、二人が出会う機会はもうほかに残されていないにもかかわらず……。
 一方、勝久は勝久で、ヒグマから逃げ出す際に莢子がルイの名を呼んでいたことを思い出すなどあって、彼女が以前から自分を知る高校の同級生であることをなんとなく察しつつあった。三本木たちにも心当たりを尋ねつつ、しかし確証の得られぬまま約束の場所に赴くものの、莢子は来ない。日も暮れていよいよ諦めかけたそのとき「ごめんなさい、おそくなって」との声とともに現れたのは、なんと佳葉だった――泥沼の予感である。
 莢子は黒髪ショートカット、佳葉は腰まで伸びた巻き髪。さすがの勝久も第一印象で「ちがう」と感じる。しかしあのときは三つ編みにして頭にまいていたのだという佳葉の言いわけを受けて「ぼくのこの種の判断は8割がたはずれる/…ということはこの場合やはりこの人で「正しい」んだ」と、あっさり納得してしまうのだ。根深いコンプレックスに由来する自らへの疑いと諦めにより直観は否定され、判断は歪められる。まぎれもなく本作中もっとも切ない一幕だが、ここで目を引くのは「正しい」に付された鍵括弧である。文脈上、この“正しさ”は目の前の人物とあのとき自分を助けた少女との“合致”を基本的には意味していると思われる(この人で「合っている」という意味の「正しい」)。だが括弧による強調はこの語にもっと強い、ある種の倫理的なニュアンスを与えないだろうか――あたかも、あの日の少女に再会することが彼にとって一つの正義を含むかのように。
 さて佳葉をカンシャク玉の少女と認めることにした勝久はその後、彼女を自宅の庭に誘い二人でルイに水浴びをさせて遊ぶのだが、その「デート」はいかにも不本意に課せられた義務として描かれていた。途中ジュースを買いに行くと言って抜け出した勝久は渋い表情でこう呟く――「デートというのは疲れるものだなあ」「いやしかし労働があるからこそ休みがありがたいのだ/楽あれば苦あり/人生とはそういうものだ」。佳葉との語らいは勝久にとって労働、義にかなうべき務めにすぎないのである。それゆえ家族からガールフレンドができたことを祝われても彼は浮かない表情だ。「なにか釈然としない/どこかまちがってるような気がする」。どこか間違っている――つまり間違いの所在は少なからず曖昧なのであり、したがってこの間違いは単なる“人違い”などではなく、もっと漠然とした状況全体の過ちを示唆していることになる。たとえばあの日助けてくれたのは彼女であると自分が認めただけで、特にそれ以上の手続きなしに「GF(ガールフレンド)」と呼ばれる相手を得るに至るという、この奇妙にオートマティックな進展そのものに潜む不正を。
 しかし事態はもう少し複雑である。仮に状況そのものは不正であるとしても、あくまでも勝久自身は正しく義務を果たしていた。彼は自分を助けた者に対し正しい行いによって報いなければならないと考える。佳葉をガールフレンドとしてデートすることは、後述するように少なくとも佳葉という他者に対しては正しい応答の仕方なのである。問題は正しく応答すべき相手がほかにいるということ、つまりそれが間違った正しさであるということにほかならない。では本当の、正しい正しさとは何か――本作の面白さは、それが単にデートの相手を莢子へと修正することではないというところにある。

 莢子は勝久の家の前を通りかかったとき、彼と佳葉のデートを目撃していた。そして勝久が「休憩」のためジュースを買いに出た隙に佳葉を呼び出し「黒田くんのこと好きでもないくせに!」と非難する(それに対する佳葉の「そんなことわからないでしょう?」という返答もすこぶる味わい深いのだが、ここでは深入りしないでおこう)。怒りに震え「私だって黒田くんに会うわ!!!」と叫ぶ莢子、そして後日ついに二人は揃って勝久の前に現れ、競い合うように自分が本物だと主張し「黒田くんどっち!?」と決断を迫るのだ。
 莢子の登場によりさすがの勝久もどちらが本物かすぐに気づくのだが、なかなか答えを口にすることができない。なぜなら「一度佳葉さんを認めてしまった以上こちらに責任がないとはいえない/ましてどちらかを選ぶなんて」到底できないから。勝久の優しさと愚かさが典型的に示された一節だが、彼が逡巡しているうち莢子はふいに全てを諦めたような表情となり「私が嘘をついていたのよ」と言ってその場を去ってしまう。弁解のいとまもなく完全な悪者として残された佳葉、そして失意に沈んでゆく勝久……。
 ところで、ふだんは一緒に遊びに出かけるほどの友人である莢子に佳葉がこのような常軌を逸した意地悪をしたのには幼稚園時代の因縁があった。近所に住むケースケくんという男の子に自分たちのうちどちらと結婚したいかと迫ったところ、彼は莢子を選んだのである。そのことを根にもっているのだろうと指摘され「フン! べつに私は器量が劣ってるから負けたなんて思ってないわ」と強がる佳葉に対し「わかってるわよ/みんな佳葉を美人だと思ってるわよ/それでいいじゃない!」と答える莢子。ここまでくると莢子の圧倒的な器の大きさが際立ってくるが、それはともかくここで興味深いのは、佳葉が自らの容姿に対してもつこの確固たる自信である。先ほども述べたように、佐々木の作品においては登場人物が「美人」であるかどうかを単純に作画から読み取ることは難しく、言語化された周囲の評価や、あるいは服装や振る舞いにかろうじて示されるにすぎない。そのなかで佳葉は繰り返し自分の容姿を誇り、また「みんな美人だと思っている」という他者の証言まで取り付ける。要するに美しさが取り決めでしかない世界のなかで彼女はその取り決めを力ずくで作り上げてしまったのだ。そうなるともはや私たちは佳葉を一義的に「美人」と規定せざるを得なくなる。もっとも勝久は、80年代風のトサカを豊かに湛えたその華やかな髪型を「前髪が(記憶のなかの少女よりも)うっとうしいような気がする」と一蹴しているし、三本木たちに少女の特徴を説明する際には満面の笑みで「かわいい」と言っていた割に、目の前の佳葉の美しさにはほとんど心を動かしていないようだ。とはいえ彼の陥った状況を客観的に形式化するならばそれは「誰もが認める美女との交際」なのであり、そしてそのことこそが「どこかまちがってる」と感じられていたのである。
 美女=佳葉との交際の成就が侵犯したもの――それはまさしく私たちの妄想する自由にほかならない。具体的な恋愛事情を直接的には描かずそれをつねに潜在的なものに留めておきながら、格好よさの程度さえ読み手の想像に委ねるという作品の基本スタンスに対して、交際の成就はそこで与えられているはずの二次創作的妄想のポテンシャルを無効化してしまう。というより、ほとんど能動的に自らを「美人」としてはばからない佳葉の存在自体がそもそもそこに別種の法をもちこむ異分子なのだと言うべきかもしれない。佳葉が体現する異質な法とは「恋愛」のコードである。愛の告白等々の手続きを一切踏むことなく、また互いへの好意を宙づりにした状態で半ば自動的に恋愛関係を結ぶことは、それゆえコードの遵守という意味では「正しい」行いとなるだろう。だがそのコードは結局のところ異郷の法にすぎないのであり、したがって作品本来のコードに照らすならばその正しさはあくまでも間違った正しさでしかありえなかったのである。
 それに対して作品本来のコードを体現する存在が莢子だ。その証拠は物語の最後、勝久と莢子の再会のシーンに見出されるだろう。夏休みも終わるころ、ふと思いついて莢子が約束の場所を訪れてみると、そこには勝久がいる。彼は彼女に謝るためにたびたびその場所を訪れていたのだ。「あの時きみが本物だとわかったけれど言えなかった」「私こそ約束をすっぽかしてごめんなさい…」とひとしきり謝罪が交わされたのち、莢子は勝久に思いを告げる――ところがそのとき勝久は「えっ」と驚き「そういう方向に話が進んでいたとは/こ…これは喜ぶべきことだよな/信じられないが」と戸惑うのである。佳葉を当たり前のようにガールフレンドとして受け入れていたことを思えば、彼のこのぎこちなさはいかにも奇妙に映る。だがこの困惑こそ莢子への正しさと佳葉への正しさとの根本的な違いを証し立てているのではないだろうか。先にも述べたように莢子は、実は格好いいかもしれない勝久をめぐる私たちの妄想とも重なりあう一種メタ的な視点から勝久に恋をしていた。しかしこのことは同時に、莢子と勝久が作品の内部においてアクチュアルに交際を成就させることを予め禁じるものでもあるはずだ。だからこそ勝久は莢子の告白を予期しえなかったのであり、また実際にも禁止は厳しく適用される――その時点ですでに、莢子は父親の転勤にともなって夏のうちに北海道を去ることになっていたのだから。

 手紙書くねーと言って/浅羽莢子はハレバレと去っていった

 莢子の去り際は実に爽やかなもので、あたかも告白を遂げた瞬間に恋心そのものがほどけてしまったかのようでもある。二次創作的妄想の自由を体現する者として、彼女は恋人未満のまま姿を消すよう運命づけられていたのだろう。最後のコマでは、かつて「GF(ガールフレンド)」ができたことを言祝いでいた際と同じ笑顔で「よかったねペンフレンドができて」と言いつつ、家族が勝久を取り囲んでいる(勝久は腕にルイを抱き、目には涙を浮かべている)。これは彼と莢子とが決して遠距離の恋愛関係にはないことの冷徹な念押しであるようにも読めるが、何度も言うようにほかならぬこの勝久の傷心こそが、莢子あるいは来るべきほかの誰かとの関係を私たちの側の妄想の領域に委ね、そこに自由を保証しているのだ。それが勝久の選んだ正しい正しさだったのである(ここで再び新海誠作品との対照を試みるとすれば、構造的にはむしろ『君の名は。』よりもはるかに共通点の多い『言の葉の庭』を想起するべきだろう。結末において主人公と教師はまさにここで言う「ペンフレンド」となるわけだが、そこでは恋愛の余地が曖昧に残されているぶんむしろ生々しい破局が「現実」として示唆されているようにも感じられた)。

 実質はどこまでも仄かで、しかしあくまでも力強く「恋愛」を標榜しつつ、それでいて最後には風のように去ってしまう莢子の思いは確かに、作品世界の均衡と読者の妄想いずれにとってもあまりに都合よくチューニングされている。だが莢子の存在は(あるいは佳葉もそうかもしれないが)図式的に分析し解釈することの不可能な感性を構造の豊かな余白として携えている限り、決して抽象的な法ないしコードに還元されることはない。勝久に思いを告げるときの莢子の語りは「私はそれほどとも思わない」の奥ゆかしい屈託と響きあいながら、彼女と勝久の本質を美しく照らし出している――「私ね黒田くんの家の前を通ったことがあるのよ/ルイがものほしの柱のところにつながれていて/柱のまわりをぐるぐるまわって引き綱が短くなったところでころんで首輪にひっぱられていた/そこに黒田くんが出てきてアンパンでルイをひきもどそうとするんだけど/ルイはどうしても同じ方向にまわろうとするの/私それを見て黒田くんが好きになった」。

 人を好きになるというのは、たぶん本当はこういうことなのだと思う。

 

 

参考文献

佐々木倫子「君の名は」、『家族の肖像』、白泉社(花とゆめCOMICS)、1985年。