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ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』『遁走状態』

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ぷらぷら読書会記録 2017年7月 ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』&『遁走状態』

今回は『プラトンとプランクトン5号』より、ぷらぷら読書会記事の一部を公開します!

課題本はブライアン・エヴンソン『遁走状態』から「マダー・タング」、『ウインドアイ』から「もうひとつの耳」。ここでは、「もうひとつの耳」についてのぷらぷらお喋りを座談形式でお伝えします。

*参加者

R 深沢レナ

S 伊口すみえ

N なめこ

H 雛倉さりえ

T 竹田純

・・・他

 

1 ブライアン・エヴンソンという作家

R はい、今回はトラウマ小説教室第一回、ブライアン・エヴンソンです。『遁走状態』から「マダー・タング」、『ウインドアイ』から「もうひとつの耳」を読んできていただきました。

エヴンソンについて簡単に説明をしておきます。1966年アメリカ・アイオワ州生まれ。敬虔なモルモン教徒の家庭に育ち、モルモン教系の大学で職を得ていたけれど、1994年のデビュー作があまりにも暴力的な内容だという理由で破門され、妻も職も失ったそうです。離婚者。仲間です。初期の作品には暴力が顕著。なんてことをいうとすごい怖そうなイメージですが扉絵の写真はいい笑顔のひげのおじちゃん。インタビューでは、悲惨なこどもの話が多いけど実際自分のこども時代は楽しかったといってます。本当かどうかわからないけど。ゲームの製作やホラー映画の小説化もし、フランス文学翻訳者としても活躍しているそうです。

アメリカ文学の系譜でみると、現代アメリカ作家たちはファンタジー・SF・ホラーといったジャンルを隔てる壁を無化し、純文学を押し広げているらしくて、そのような流れを柴田さんは「ニュー・ニューゴシック」と名付けています(『MONKEY vol.3』柴田元幸「二十一世紀のアメリカ小説」より)。今日のゴシックは、巨像も真実も相対的で、両者のあいだを物語が「だらしなく横滑りしつづける」ことを特徴にしている。つまり、「決定不可能性」そのものが発見されたのだ、と。そしてその筆頭がエヴンソンである、と。

じゃあ、ちょっと早速作品を見ていきましょう。

 

2 「もうひとつの耳」 〜この耳、僕の耳じゃないよ

 

 イストヴァンはもうひとつの耳を戦時中最悪の日々に得た。ある瞬間、絶叫し突撃していると思ったら、次の瞬間には黴と血の臭いのする野戦病院で目覚め、軍医の疲れた顔を見上げていた。痛みを鈍らせる薬はすでに投与されていたが、それでもまだ何か、引っぱられるような感覚があって、それとともに、軍医が針と糸を上げ下げするのを片目の端から眺めた。何なんです? 僕はどこが悪いんです?と言おうとしたが、言葉が出たかどうか確信が持てなかった。いずれにせよ軍医は気づいたそぶりを見せなかったし、次の瞬間、彼はまた意識を失っていた。(「もうひとつの耳」冒頭部)

 

R これが冒頭。次はこんな感じに進みます。

 

「気分はどうかね?」軍医は訊いた。

「何があったんです?」イストヴァンは訊いた。今回は声が出た確信があったが、出てきたのはささやき声だけだった。

「地雷だね、たぶん」軍医が言った。「あるいは手榴弾か。君、相当ずたずたにされたよ」。トーン・アップだ、とイストヴァンの頭がすぐさま訂正した。「生きてるだけ運がいいよ」と軍医は言った。

「どのくらいひどいんです?」

 軍医は彼をじっと見据えた。「体半分、顔半分。一応まだ人間に見えるからそのことは心配しなくていい。左耳もちぎれたが、君を運び混んできた男が耳も見つけて一緒に持ち帰ってくれた。おかげでひとまず縫い戻せたよ」

「僕の耳?」イストヴァンは言った。手をのばし、そこで触れたものにハッと驚いた。

 軍医はうなずいた。

「でも僕、左耳なかったんですよ」イストヴァンはなおも側頭部を探りながら言った。「何ヶ月も前になくしたんです」

 

R 見知らぬ耳を縫い付けられてしまった男は、次第に自分にしか聞こえない耳の言葉を聞くようになる。そのうち男は現実がわからなくなり、耳と男の存在が逆転していく、という話です。

エヴンソンを最初読んだときわたしはシャレにならない怖さを感じたんですが、何が怖いかというと、まずは、敵の姿がよくわからないということ。たいていの怖い話って、怖い対象が自分の外部にあるか、または、自分の内部にあっても「影」のように相対立するものとして何かしら形をもっている気がする。でもエヴンソンだといったい何と戦っているのかが見えない。自分かもしれない。外在的な悪というより、内在的な症状というか。どうしてそうなったのかという理由も希薄で、背景の説明もない。「何か」といって保留したり、指示語を多用したり、「もうひとつの耳」においては、それが不定形な耳として表象されているんですよね。

S 耳についての描写が読んでいるうちにどんどん変化していくよね。はじめは「糸状のもの」っていって海の表現をつかっていたのが、「繊維」って神経と絡み合うイメージになって、それから「イソギンチャク」とか「蔓のように」という表現になって、それが突然「頭部がある種の刃を振りまわしているかのよう」ってなって、そのあと「巻貝」っていうふうにイメージが全体で統一されていない。

R エヴンソン作品においては「認識」という問題が常にあって、怖い出来事を叙述するだけでなく、かならず登場人物の思考が描かれているんだよね。だから問いかけや自問自答がすごく多い。彼らは大抵現実を正しく認識しようとして、でもできなくて葛藤していて、そのわからなさが読んでる側は気持ち悪い。だいたい主人公がまともかどうかもわからないし。他人との会話は基本噛み合ってないから、外部との関係から判断ができなくて、主人公の曖昧な内面しか頼るべきものがない。

H 耳との意思伝達の非対称性が気になりました。耳は一方的に話しかけてくるだけで、主人公から耳へは話しかけることができない。そもそも耳は聴くための器官であるはずなのに、「聞こえるかい?」という声は耳自体が発しているということのおかしさがある。もしくは誰かが発した声を「誰かの耳」が拾っているのかもしれないけれど。

「もうひとつの耳に聞こえる声は、医者たちが何をやるのか、何もしないうちから全部わかっているようだった」

「彼はその声に向けて何も言えないが、声は彼に何でも言えるのだ」

「だが、そうやって問うてはみたものの、やはり聞き入れ、従わずにはいられなかった」

というように、主人公は耳に逆らう事ができないのですね。

R 「主従関係」みたいな上下関係はエヴンソンあるあるですね。優劣関係のあるところって閉鎖的で外側からの視点が入りにくいのか、閉ざされた関係性のなかでどんどんおかしくなっていく人間がよく描かれます。だいたいにおいて主人公は劣勢で遅れをとっている。でもそれも、明確な「悪の帝王」みたいなのがいるんじゃなくて、敵である存在と自分との輪郭が曖昧なんですよね。たとえば、「もう一つの耳」だと最後に、「耳はいまや、異物であると同時に彼自身の一部であるように思えた」って書かれている。

この作品は全体的に明確な描写がされていなくて、背景に戦争という状況があるけれど、何と戦っているのか、どういう戦争をしているのかといった情報が皆無で舞台が不明。農家・住居・墓地・納骨堂とかが一応おかれているけれど、ゲーム的というか、あまり現実味のない場所が背景にあって、最終的に「塹壕の反対側の地帯は、驚いたことに、どこからどこまで彼がいた側の地帯と同一だった。」と描かれる。耳と自分が重なり合っていくという物語が、敵=自分という背景の構図とも重なり合っているんですね。

 

3 よくそんな気持ち悪い語り方できるな

R で、もちろん語られている内容も怖いんだけど、エヴンソンはその語り方で怖さを増長させている。というのも、なんか文章、変なんです。「何か」を使った曖昧な知覚だとか、「確信が持てなかった」「判断がつかなかった」「わからなかった」「かもしれない」というような否定形の多用は、結構他の作家でも使うし、それから、五感を刺激させる文章であるというのも常套手段な気がします。

「もうひとつの耳を通して、息をする音がだんだんゆっくりになり、ぶるっと軋み、カタカタ鳴って、やがて止まるのが聞こえた」

「もうひとつの耳はじわじわ神経系に入り込んできた」

とかいうように、オノマトペをつかいながら徐々に徐々に侵食されていく感じを出している。でもエヴンソンは、それだけじゃなくて、なんか、生理的に、気持ち悪い。たとえば、

「自分の顔の、水で薄めたバージョンが見えた。それは、その顔は、見覚えのないものに思えたし、耳は、新しい耳は、・・・」

とか

「イソギンチャク、と彼は思った。何らかの動物、見なれた生き物、そいつが・・・」

とか言い換えを用いたりする。端正な語りを壊し、語りが考え、知覚しながら進んでいくようなあやふやさがある。ちょっとこなれていない言葉が混ざっているのもかなり胃にきます。「水で薄めたバージョン」とか、ぎくしゃくしているし、あとときどきよくわからないタイミングで言葉が太字になっていたりして、そういうのは、なんか、ぞわぞわする。

N ここの三人称って、内田百閒みたいな一人称の語りよりも怖いよね。一人称の語りだと、語り手がはじめから視点が制限されているという前提を読者がもてるんだけど、三人称だと語り手がすべての情報を有しているはずなのに、読者に対しても情報を制限して小出しにしていることになって、読者が作中人物とおなじような目線に立たされる。

S 語り手の距離が近いところから遠ざかったりするのも気持ち悪かったなあ。あと結末がよくわからなかった。

 

 彼は長いこと中にとどまり、さらに長くとどまった。けれどとうとうよたよたと、息を切らして出てきた。

 あるいはそう見えた。というのも、出てきたものは彼のように見えたが彼ではなかったのであり、まったく別の何かだったのである。一人の男か、あるいは一人の男の優れた代用品。イストヴァンと同じような頭と顔付きだが、どうも何かが違う。耳があったところにはただの穴が、巻き貝の形もないただの穴があって血にまみれていた。

 一瞬ののち、かつて彼であった、わずかに残っていたものも闇の中に消えていき、それもいつかなくなった。

 

R ただのホラーの「オチ」とはちがって、何が起こったのか明瞭じゃないんだよね。

S「わずかに残っていたもの」って、なんなんでしょう。

N なんなんでしょう。

T なんなんでしょう。

・・・(『プラトンとプランクトン5号』に続く!)

創作

うおの群れ 雛倉さりえ

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うおの群れ

雛倉さりえ

 

 青い空に、たくさんの魚が浮かんでいる。あれは魚ではなくミサイルで、でもほんものじゃなくてにせもので、大昔、空に灼きついた影なのだということを、前に夫がおしえてくれた。夫はうまれつき目が三つあって、まばたきのたびにたくさんのまつげがこすれ、羽のような音が立つ。身長は私の三分の一くらいで、毛の生えていない頭は、石みたいにつるつるしている。
 今日のお昼は外で食べようか、と夫が言い、私はうれしくなってぜんぶの腕をふりまわす。裏で採れたリンゴをかごに入れ、私たちは手をつないで家をでた。空は晴れわたり、見わたすかぎりのくさはらも、あおあおとひかっている。途中、ひと組の老いた夫婦とすれちがった。地面をこするほどながい腕と、うろこの生えた手を絡ませて、ゆっくり歩いている。すれちがいざまに、しわだらけの顔が二つ、こちらに向かってにっこり笑った。
 丘に着いた私たちは、並んで坐ってリンゴをたべた。いま、私たち、にんげんっぽい。呟くと、夫はうべなう。ぼくらはにんげんだよ。そうだ。私たちは人間で、生きることはたのしい。まいにちごはんが食べられるし、夫はいつもやさしい。でも。ままごとみたいだ、とときどきおもう。もっと正しいかたちをしたほんものの暮らしが、かつて、どこかに、ここに、あったのではないか。
 食事のあと、夫は私を草の上によこたえた。夫の頭はかすかに青く、舐めると塩の味がした。肩ごしに見える青空には、かぞえきれないほどたくさんの魚たちが群れている。こうやって、すこしずつ殖やしてゆけば、またもとどおりになるのだろうか。もとどおり、というのがなにを指すのかわからないまま、私はおもう。それとも、もう何をしたって、まちがいにしかならないのだろうか。
 風がふいて、花の香りがながれてゆく。夫が私の名前をよぶ。三つの目のすべてに、私の顔がうつっている。ぜんぶの腕と、ぜんぶの脚をつかって、私は夫をだきしめる。絡みあった私たちを、はるか天の高みから、魚たちが見おろしている。