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黒田硫黄「わたしのせんせい」

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ぷらぷら読書会記録 2017年6月 ①黒田硫黄「わたしのせんせい」


黒田硫黄のスピード感

発表者は漫画研究者で猫に似ている猫石くん、ということで、今回の課題本は漫画です、黒田硫黄「わたしのせんせい」(『黒船』Cue Comics)。

やめるやめる詐欺をなかなかやめない宮崎駿も激押しの黒田硫黄ですが、黒田硫黄は以前、ぷらぷらの小説技術ゼミで「あさがお」「西遊記を読む」(どちらも『大王』収録)を読みまして大好評。今回の「わたしのせんせい」は、女子高生と高校教師(せんせい)との恋愛話かと思いきや、だんだん冷めてきたっぽいせんせいが「俺は宇宙人なんだ」とかいいはじめ、何言ってんだ、バカか、と思ってナメてたらマジで宇宙人だった、という予想外の展開に裏切られつつ、でもなんだかんだいって面白かった、との声が高い短編作品でした。

登場人物がかなり多くて政治の話が絡んでくるのでややこしくなるのですが整頓すると、

  1. 鈴木加油:高校生。せんせいと付き合っている。
  2. イトー:加油と同じ学校に通っている高校生。鈴木家とイトー家は政敵。
  3. せんせい(野川):高校教師。のちに細胞を金属元素で置換される。宇宙へ。
  4. イトー(父):現職町長。ゴミ山放置で非難を浴び、降ろされそうになる。
  5. 鈴木(父):県庁職員。町長選を狙っている。
  6. 吉村:県会議員。

といったところになります。

メインは加油、イトー、せんせいの3人。

加油、という名前は文字どおり「給油する」という意味のほか、中国語では「がんばる・体当たりする・踏ん張る」といった意味もあるそうです。自転車を踏ん張ってこいでいるということのほか、実際に作品中で、ゴミ山に油をまいて燃やそうとすることからもこの名前が選ばれたのではないかと。

「花を摘んでて遅れました」

と言って花をせんせいに手渡し見上げる加油のアップから始まり、彼女が自転車で坂をのぼるシーンは手塚治虫の『新宝島』をホーフツとさせる。

しょっぱなからしょっちゅう時間が飛ぶし、加油とせんせいの関係といった説明を省いてぐんぐん話が進んでいきます。

この疾走感は、読者がページをめくることを念頭に入れて描かれていることから生じているそうな。人が増えると文字も増えてごちゃごちゃするのだけれども、吹き出しがコマからはみ出ているだとか、ページをめくることを急かすかのような描かれ方をしていたり、読者がページをめくる方向と進行方向を一致させたりして、作品のスピードを加速させているそうです。ふむふむ。

けれども、途中、せんせいが来歴を語るシーンで時間が減速します。(ここでせんせいがぶち抜きになっているのは見る人が見れば萩尾望都だとピンとくるそうで。)それまでの速い時間の流れが、宙に浮かされる視線とともに遮断され、主人公の混乱が読者にも伝わるんだそうです。ふむふむふむ。

 

 

止まらない上下関係

作品の中では「上下」というものが様々な形で現れます。

せんせいと生徒という関係にしろ、娘と父親という関係にしろ。そしてそれは、見下ろす/見上げる構図となって繰り返し表象され続けます。

「上から神様みたいに見てたいんでしょ」(p38)

「みんな見てたんだ上から」(p41)

「先生はそうやって」「上から見ていたいのね!」(p49)

これらはすべて加油のセリフですが、加油を見下ろすせんせいや父親にも上の存在が描かれています。町長となろうとする父には県長という存在があり、せんせいの上には(2つの目のようにみえる2つの丸い窓から見下ろす)宇宙人の存在がある。そして「町の上は県 県の上は国って操って」(p57)というイトーのセリフどおり、それらの上にはまだ上がいて、見下ろす/見上げる関係は限りなく続いていることが示唆されている。

それらのヒエラルキーの底辺に位置しているのが加油。加油の移動手段は自転車であり、それはせんせいや県長の使用する自動車、自動車を壊す宇宙船の図式の中でも最弱のものです。しょせん自転車。弱い弱い。

底辺にいる加油はそれでもなんとか抗おうとします。

「私はね! 先生と一緒にいたいのそんだけ」

「引きずりおろせないなら」「先生んとこいく」(p49-50)

加油は基本的に「のぼろうとする者」であり、冒頭では坂をのぼり、家の中では階段をのぼります。加えて、加油という名前や、感情の激しやすい性格、ゴミに油をかけて火をつける行動から加油には「火」の性質が与えられているんだろーかと思うのですが、火というものも上へのぼるものであり、加油の燃やしたゴミ山からは煙がたちのぼることからも、加油の「上へ!」性が示されている。

けれどもそんな簡単に上にいけるわけはない! 彼女は「私たちが自分で決めたことなんてなんにもな」(p45)と父に言いかけて追い出されます。その閉塞感は、家の扉や、学校の屋上の柵、加油の着ているボーダー柄の服などにも表されています。

そういった閉じ込める「柵」の表象と対になっているものが「道」の表象ではないか、と。

せんせいは、まだ若い加油に、進路や将来のことをたびたび口にし、未来のない自分とは違うのだと教え諭します。加油は反抗しますが、それは二人の使う乗り物からも明らか。自動車が壊された先生は、必然的に道を失い宇宙に帰るしかなくなりますが、自転車を交換し、さらには新しい自転車を手にいれる加油は、自分で道を進み続けることできる。

作品のラストシーンは、思い切り体重をかけながら自転車をこぐ加油の姿。冒頭、車で道を走っていくせんせいと、同じ構図の道で自転車をこいで走ってゆく加油。道を閉ざされたせんせいと、道が開かれている加油と読めるのか、それとも、加油もせんせいの反復に過ぎないのか。加油は空を見上げて、答えは開かれたまま物語は終わります。

曇天。

 


右ページ右上は俺がやるから空けておけ

また、自転車は単なる移動手段としての枠を超えているという意見もありました。自転車は加油の感情の表れとともにあるのではないか、と。たしかに、加油がせんせいから別れ話を告げられている時に、雨に打たれる自転車がさりげなく描写されています。

そういうさりげなく悲しいシーンもあるんですが、全然ウェットじゃないんですよね。と、いうのも決めゼリフを小さいコマにしたり、どうでもいいセリフで大きなコマを使ったりするからか、感傷的な絵にならない。ドライ。

加油が火をつける時にせんせいがいうのが「八百屋お七か おまえは!」って。大事な時に言うセリフかお前。っていうか宇宙人なのによくそんなの知ってんなお前。

あといくつか挙がった点。

加油は自転車をこぎながら歌をうたっているんですが、それは細野晴臣作詞作曲の「終りの季節」で、「窓から 招き入れると」というのは窓からみえるせんせい、「終りの季節」とは、加油とせんせいの関係のことにもなっているようです。

作品の中で、加油の表情がくるくると変わる、との指摘もでました。言われてみれば冒頭の加油は高校生にはみえない。超幼くみえる。けれども(おそらくカーセックスをした後)パンツを履いている加油は艶っぽくみえますね。

あと、細かいところだと、手を引っ張ったり、転んだり、と同じモチーフが反復されています。「汚いぞ」というイトーのセリフは、コマの位置まで同じ。右ページ右上は「イトー」の独壇場!

 


★黒田硫黄あるある★

・コマが詰まってる。字が多い。

・加油が足をくじくシーンなど、いきなりコマが縦になったりする。

・セリフ使いがおかしい。たとえば「俺はさ 居づらくなるよ かもなあ」とか。

・好きな人物が遠くに行ってしまう、という話は黒田硫黄作品に多いそうです。

・黒田硫黄の描く女の子ってほんとかわいいよね。

・前回やった伊藤重夫の「踊るミシン」の女の子もかわいかったよね。

・そういう漫画の女の子たちのかわいさというのは、彼女たちが「動こう」としているから、じゃない?

・ってかゴミの中に人っぽいのいない?

・ってかこれ、ウルトラマンじゃない?

・あーお腹減った。ジョナサンいこ。

・ジョナサンいこ。

などなど、雨の中、初参加の方も加え、とても充実した読書会となりました。ではでは。

(文責 深沢レナ)

批評

ため息としてのスピーチ・バルーン―漫画の「吹き出し」鑑賞案内 しだゆい

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ため息としてのスピーチ・バルーン ―漫画の「吹き出し」鑑賞案内

しだゆい

 この文章のタイトルは大瀧詠一の「スピーチ・バルーン」という曲のある一節をもとにしている。スピーチ・バルーンとはいわゆる「吹き出し」のこと、吹き出しとはご存知の通り、漫画において人物などの発話や心中の思いを囲む「枠」を指す。それはたいてい風船(バルーン)のような楕円形をしているが、声を荒げているさまを表わすときにはその風船が弾けたようなかたちになったり、あるいは電話口から伝わる声やロボットなどの機械的な発話を囲む際には角ばったものが使われたりと、単に絵と言葉をわける境界として以上のさまざまな役割を担っている。もっとも、その具体的な機能についてはすでに漫画表現論による研究の蓄積があるだろうから、ここで詳しく論じることはしない。むしろ明確な意味とか機能には必ずしもかかわらない、吹き出しの美的な個性のようなものをディレッタントに味わってみようというのが私たちの目論見だ。

 吹き出しの醸す味わいにはじめて気づくことになったきっかけは阿部共実のそれであった。たとえば最新作『月曜日の友達』第1集冒頭、ページ一面を抜く大ゴマの、小さく船影を配して凪いだ湾を遠景に鳥瞰される市街の上空、一つの吹き出しがまさしくバルーンのように浮かんでいる。いささかいびつな楕円形をして、底のあたりには短いしっぽのような鋭角の突起がみられるが、これはたいていの吹き出しにみられる構造で、先端の向きによって話者を指し示す機能をもつことは誰もが知るところだ。ところがこのコマには人物がいないので、楕円に囲まれた「おはよう。」の文字が誰のものかはまだわからない。たっぷりと風をはらんだ吹き出しのなか、控えめな級数で組まれた持ち主不明の挨拶が、余白を持て余して所在なさげに佇んでいる。

 ページをめくるとカメラは急降下、中庭側から中学校の校舎をやや俯瞰ぎみに眺める一コマめから、さらに高度を落とし窓越しの教室を正対する角度で切り取る二コマめへ、ページを上下に分割するふたつのコマに今度は五つの吹き出しが、やはり風船のように滞空する。「中学校って朝早くてしんどい。」「もう桜は散っちゃったね」「今日体験部活動いこうよ。」……ここで私たちは、あの市街地上空を漂っていた「おはよう。」が入学したての中学生たちのものだったことを知るのだが、決して無機的ではないが均質さには十分配慮された背景の微細な描線に比して、吹き出しをかたどるペンはあくまでぎこちない。筆圧は一定せず継ぎ目もあきらかであり、楕円をめざすようでいて必ずどこかが角ばっているそれは、ちょうど全ての角をいっぺんに、しかしそれぞれ均一でない頻度で使われた消しゴムのシルエットにも似ている。

 この「角を失った消しゴム」というものにはどこか独特な居住まいがある。嵌まるべき場所からこぼれ落ちてしまった「モノ」の羞恥と頑なさをかたちに込めて、字を消すという自らの機能をいっとき忘却したかのような顔で茫洋とそこにあるそれは、翻って持ち主の、ある繊細な不器用を指し示す痕跡となるのだ。何も考えず片側からひたすら削ってゆけるほどに鷹揚でも、かといって八つの角のどこかは常に角のまま残しておけるほど器用でもなく、そのたびごとに取るものも取りあえない焦りから世界との微かな齟齬を修正しようと試みては、かえってその溝を広げてしまう……だが、それこそまさに阿部共実の描く多くの生のありようではなかっただろうか。

 だから最初に私たちが大気を漂う「風船」に見立てたあの一連の吹き出しも、本当は消しゴムのようにただそこに「置かれて」いたにすぎないのだ。どんなに写実的な絵画であっても別次元のモノ、たとえば消しゴム一つそこに乗せてみるだけでたちまち平面へ退いてゆくのと同じ原理で、阿部共実のたどたどしい吹き出しはその背後の世界をいったん「描かれたもの」へと引き戻し、しかしそうすることで平面のうちに閉じ込められた者たちが本来もつはずの生の立体性をもう一度立ち上げるための媒介となるのである。二次元と三次元の境界であいまいに盛り上がる「モノ」としての吹き出しを通じて、私たちと彼/彼女らの生は、互いに感応しあうことを許される。

 一方、やはりもはや風船とはかけ離れながら、それでいて消しゴムのもつモノとしての硬直や厚みからも自由な、志村貴子の吹き出しは貼りつく生きものだ。そのつどの話者の息づかいや声色、その震えまでをも敏く感じ取っては自らのかたちに反映するので、それらは盛んにくびれ、波打ち、思いもよらぬ部分が欠けている。もっとも「くびれ」にかんしては他の漫画家においても、息の長い発話を表示するため複数の吹き出しがつなぎ合わされる際などに広くみられるものだが、基本的には楕円を合成した雪だるまのような単調なかたちがほとんどで、志村貴子ほど生きのいいくびれ方をするものはあまりない。粘性をもった液体の雫がふたつ、ゆっくりと平面を広がり互いに接近してついには溶けあったときのように(ときには溶け合いきれず、小さな空隙が雫どうしをわずかに隔てていることもあるのだが)滑らかなつなぎめ。また話者を指し示す突起のかたちもさまざまで、鋭い角のようなものや、芽のようにわずかな丸みを帯びたもの、虫刺されの腫れのようになだらかなものもあれば、先端が結ばれずそこからしゅうっと息が漏れ出ているものもある。

 だがこのように吹き出しがまるで生きてみえたとしても、その代謝の熱が作品を内側から湿らせるようなことは決してないのだ。その意味で、これらは生きものというよりその影――白い影にすぎないのかもしれない。かつては一つの塊であった鉱物が波の浸食作用によってえぐられ穿たれ、やがてくびれや欠損や突起が有機的なリズムで組み合わさった生きもののようにみえてくることがあるけれど、それと同じように――志村貴子的な世界とは水や大気の代わりに「白」そのものを媒質として満たした空間なのだから――その白の分子が偏って凝集した結晶がいわば偶然に、生命の似姿となったのだとも考えられるだろう。いずれにせよ志村貴子において吹き出しは単に台詞を示すためだけの枠なのではない。それらは作品が担う抒情の有機的な細やかさと無機的な乾燥を同時に、またきわめて象徴的なしかたで表現する一種の文様として刻まれてもいるのだ。

 こうして見てゆくと、漫画家が一〇〇人いれば一〇〇通りの画風が存在するのは当然として、見落とされがちだが実は吹き出しにも人それぞれ「吹き出し方」というものがあるということに気づかされる。他にも、たとえば古谷実の場合、その安定感のあるペンタッチ――とりわけ人間の顔がもつ形態的な面白さを読む者に再発見させる確信にみちた描線とは裏腹に、吹き出しの輪郭はつねに戸惑ったような揺らぎを一様に湛えている。それに対して、絵柄と同様の端正なペンタッチで道満晴明が描く吹き出しは、シンプルな楕円を基本として優美な曲線のみで構成され、発言の主を指し示す例の突起すら近年はほとんどみられない(鬼頭莫宏においては同じ傾向がさらに徹底され、いわゆる「突起」と呼べるものは一切なく、どうしても話者を明示する必要がある場合は引用符[″]にも似た二本の短い毛ようなものを書き添えることで突起に代えている)。最近の作家に限ってみても、とりわけ毛筆を用いたpanpanyaの吹き出しなどはごつごつと武骨なシルエットに掠れがちな墨汁も躍動感を醸していて、平衡感覚を絶妙に欠いた背後の作品世界よりもはるかに堅固な実在感を帯びているのが面白い。また今年随一の傑作『映像研には手を出すな!』において大童澄瞳が生み出した「パースのかかった吹き出し」という表現は、これまで必ずしも吹き出しに目を凝らしてはこなかった人々にも新鮮な驚きを与えるものだった。

 日常に交わされる言葉には見ることも、またはっきりとは聞くことすらできないあまりに多くのものが纏いついていて、それらが往々にして私たちを疲れさせる。だからたまには言葉や文脈などはあえて置き去りにして、たしかにこの目の前に浮かぶため息のような吹き出しの白をただ虚心に愛でてみるというのもいいのではないかと思う。いささか偏ったセレクトであったことは認めざるをえないけれど、とにかく吹き出しの魅力をその一端でもあなたに伝えることができていれば嬉しい。